第331話 泡里の声
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第331話 泡里の声

第11章 海図の響き

列車に戻り、さらに西へ。波里(なみざと)の手前で、海図の点線がもうひとつの井戸(いど)を指した。降りた先——泡里(あわり)という名の漁村(ぎょそん)は、港と呼ぶには小さすぎた。

入り江の奥に、木造の桟橋(さんばし)が一本。干した網が風に揺れ、舟(ふね)は五隻だけ。浜には貝殻(かいがら)と流木が散らばり、その合間に石を積んだ祠(ほこら)が三つ並んでいた。

祠(ほこら)には名前がなかった。どれも表面が削り取られ、かつて文字があった跡だけがうっすら残っている。

「消されてるな」

あさひが祠(ほこら)を指した。

「観測者(かんそくしゃ)か」

「だろうな。村の名前ごと管理下に置いたんだ」

久遠(くおん)は祠(ほこら)には触れず、入り江の水面を見ていた。義眼(ぎがん)が海面を舐(な)めるように動く。

「泡(あわ)だ」

こよいも見た。海面に、小さな泡(あわ)が浮かんでいる。ひとつ、ふたつ。波の動きとは関係なく、海底から静かに上がってくる。

泡(あわ)は水面で弾けると、微かな音を立てた。水が爆ぜる音とは違う。もっと乾いた、短い音。

人の声だった。

一音だけ。泡(あわ)ひとつに、一音だけが入っている。弾けた瞬間にそれが放たれ、すぐに潮風に溶けて消える。

こよいは桟橋(さんばし)の端に膝をついて耳を澄(す)ませた。泡(あわ)が弾ける。「か」。また弾ける。「み」。また。「な」。

名前の断片(だんぺん)だ。

「海底の水脈(すいみゃく)から漏れてきている」

久遠(くおん)が海図(かいず)を確かめた。

「この入り江の下に、旧い水脈(すいみゃく)通っている。名前を運ぶ地下水路だ。どこかに亀裂(きれつ)があって、名前の音が泡(あわ)になって浮上している」

「おう。あんたら、見えてるのか」

声がした。

振り返ると、桟橋(さんばし)の手前に老人が立っていた。日に焼けた顔に深い皺(しわ)。片手に繕いかけの網を持ち、こちらを品定めするように見ている。

「泡(あわ)が、見えてるのかって訊(き)いてるんだ」

「見えてます」

こよいが答えると、老人は網を地面に置いた。

「そうか。最近の若い連中は見えんのが多い。聞こえもせん。泡(あわ)が上がっても、ただの海だと思っている」

老人は桟橋(さんばし)に腰を下ろした。足が海面すれすれに垂れ、泡(あわ)がその下を通り過ぎていく。いつの間にか、おたまが老人の隣に座っていた。老人は驚きもせず、猫の背に節くれ立った手を一度だけ滑らせた。まるで、昨日もそこに猫がいたかのように。

「爺さん、この泡(あわ)が何か知ってるのか」

あさひが訊いた。

「知ってるも何も、俺はガキの頃からこいつらを拾ってた」

老人は海面に手を差し伸べた。泡(あわ)が手のひらの近くまで上がってきて、弾けずに留まる。

「泡(あわ)の中に声が入っとるだろう。名前の切れっ端だ。昔は、この村の漁師はみんなやっとった。泡(あわ)を掬(すく)って、声を集めて、繋(つな)げて、元の名前に戻す。それを村の井戸(いど)に返す」

「名前を、漁(りょう)のように」

こよいが言うと、老人は頷(うなず)いた。

「泡漁(あわりょう)と呼んどった。魚は食うために獲(と)る。泡(あわ)は返すために掬(すく)う。どっちも海からの預かりもんだ」

久遠(くおん)が一歩前に出た。

「今は、やっていないのか」

「禁じられた」

老人の声が低くなった。

「二十年ほど前だ。白い服の連中が来て、泡(あわ)に触るなと言った。海底の水路は管理下にあるから、勝手に名前を拾ってはならんと。逆らった漁師が三人いた。三人とも、翌朝には自分の名前を忘れとった」

潮風が吹いた。網が揺れ、桟橋(さんばし)の板が軋(きし)む。

こよいは老人の横顔を見た。目が海面の泡(あわ)を追っている。二十年間、毎日この泡(あわ)を見て、触れることを禁じられてきた目だ。禁じられても、見ることまではやめなかった目でもある。見続けた者だけが、やり方を覚えている。

「名前を忘れた三人は」

「生きとるよ。村の奥に。名なしのまま、飯を食って、眠って、起きて。でも、誰にも呼ばれん。呼ぶ名がないからな」

泡(あわ)が弾けた。「り」という音が、こよいの耳をかすめて消えた。誰かの名前の、まんなかの一音。呼ばれるはずだった声の、置き去りにされた欠片。

「拾いたいんだろう」

老人がこよいを見た。

「目を見りゃ分かる。泡(あわ)を見て、拾わずにいられん顔をしとる」

「……はい」

「やめとけとは言わん。だが、泡(あわ)を掬(すく)うにはやり方がある」

老人は懐から小さな貝殻(かいがら)を出した。二枚貝の片割れで、内側が真珠色に光っている。

「泡(あわ)は手で掴(つか)むと割れる。この貝で受ける。貝の内側に泡(あわ)を乗せると、声が貝に移って残る。貝を集めて順に並べれば、名前が組み上がる」

「並べる順番は、どうやって」

「耳だ」

老人は自分の耳を指した。

「名前にはな、音の流れがある。川の流れみたいなもんだ。正しい順番に並べると、音が滑らかに繋(つな)がる。間違えると、引っかかる。耳で聴けば分かる」

久遠(くおん)が海図(かいず)を老人に見せた。

「この水脈(すいみゃく)のどこに亀裂(きれつ)があるか、分かるか」

老人は海図(かいず)をしばらく眺め、皺(しわ)だらけの指で入り江の東端を差した。

「ここだ。岩礁の下に古い排水口がある。村を作るよりずっと前からあった穴だ。泡(あわ)はそこから上がってくる」

また泡(あわ)が弾けた。「つ」。こよいは手を伸ばしかけて、止めた。

まだ早い。やり方を知らずに触れば、名前が散る。

老人が立ち上がった。

「網を繕(つくろ)い終わったら、貝を見せてやる。泡漁(あわりょう)のやり方もな。——ただし、白い連中に見つかるなよ」

老人は網を抱えて桟橋(さんばし)を去った。足取りは遅いが、迷いがなかった。

泡(あわ)が上がり続けている。一音ずつ、名前の欠片(かけら)が海面で弾け、潮風に溶けていく。二十年分の名前が、誰にも拾われずに消え続けてきたのだ。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に寄せた。神々が静かに脈打っている。泡(あわ)の音に合わせるように、一音ごとに、小さく。まるで、数を数えているように。

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