第329話 海図の名
329

第329話 海図の名

第11章 海図の響き

星野(ほしの)から西へ向かう霧列車(きりれっしゃ)は、途中、北の海図(かいず)の港をもう一度掠(かす)めた。寄り道には理由がある。帰還の台帳と影の海図——手に入れた二つの地図を、港そのものという生きた地図に突き合わせ、波里(なみざと)へ延びる西の線の状態を確かめておくためだ。  三人と一匹は、短い停車の間に港へ降りた。  港の外れに、古い標柱(ひょうちゅう)があった。  潮(しお)に削られた木肌の上に、かろうじて残っている文字。木目の間に墨(すみ)が染み込み、表面は白く褪(あ)せていても、溝の奥だけが黒い。  濡れているのに、剥(は)げず、滲(にじ)まず、まるで誰かが何度も塗り直したみたいに強情だった。

こよいは指でなぞる。触れた瞬間、標柱(ひょうちゅう)の文字が、冷たく脈打った。木の繊維(せんい)を通して、指先に振動が伝わる。心臓の鼓動(こどう)よりずっと遅い。百年に一度打つような、気の遠くなる間隔の脈だった。

「……これ、読める?」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細める。蒼光(そうこう)が標柱(ひょうちゅう)の木肌を舐(な)め、溝の奥に残った文字を照らし出す。

「読める。だが、読んだ瞬間に『そうなる』」

「どういうこと?」

久遠(くおん)は標柱(ひょうちゅう)を指差した。指の先が蒼く光り、木の表面に影を落とす。

「海図(かいず)の港は、港そのものが地図だ。道も、波も、全部が線。……そして線には名前が要る。名前がない線は、消える」

こよいは息を呑(の)んだ。標柱(ひょうちゅう)の文字は短いけれど、その短さが怖かった。たった数文字で、この場所の存在が繋ぎ止められている。  あさひが先に口にした。

「……名は、錘(おもり)だ」

その声と同時に、標柱(ひょうちゅう)の周りの霧(きり)が少しだけ引いた。あさひの声が空気を押し、霧(きり)の粒子が一瞬散る。  足元の石畳(いしだたみ)が、ひとつぶんだけ「港」らしい硬さを取り戻す。名前が声になった瞬間、地面が応えたのだ。  こよいは、標柱(ひょうちゅう)の文字を声に出さずに眺めた。  名を呼べば、道が固定(こてい)される。呼ばなければ、道は漂白(ひょうはく)される。

「……じゃあ、ぼくたちが進むためには」

「そうだ。名を持って行く」

久遠(くおん)が目を逸(そ)らさずに言った。  目録(もくろく)の端を破り、標柱(ひょうちゅう)の文字を書き写す。筆先が紙に触れるたびに、紙が微かに軋(きし)んだ。文字を受け取る重みに、紙の繊維(せんい)が張り詰める。  書いた瞬間、紙が少し重くなった。重みは嫌な重みじゃない。手に取った途端に落ちる責任の重みだ。

「……これが、海図(かいず)の名?」

こよいが言うと、久遠(くおん)は首を振った。

「違う。これは港の名だ。海図(かいず)の名は……まだ別にある」

そう言って、久遠(くおん)は目録(もくろく)の表紙を撫(な)でた。革の奥で、紙が鳴る。目録(もくろく)の中の頁(ページ)が、港の名に反応して震えている。  あさひが布包みの剣を肩に担(かつ)いだ。包みの先が空気を切り、霧(きり)の層を一筋だけ裂く。

「名があるってことは、呼べるってことだ。呼べるなら、返せる」

返す。誰に。  何を。  こよいは巾着(きんちゃく)を握り、神々の温もりに答えを探した。神々は静かに脈打っていた。答えを持っているのではなく、問いを一緒に抱えてくれている。その温もりが、掌(てのひら)の中で揺れもせず、ただ在る。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開き直した。港の名を書き写した頁(ページ)の裏に、別の文字が浮かんでいる。  薄い。消えかけている。だが、義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)がそれを捉えた瞬間、久遠(くおん)の指が止まった。

「……知っている」

「え?」

「この名を、俺は知っている」

声が硬かった。いつもの皮肉も、分析の冷たさもない。ただ硬い。石を噛んだときのような、歯の奥に響く硬さだった。  久遠(くおん)は目録(もくろく)の頁(ページ)を指先で押さえたまま、動かなかった。蒼光(そうこう)が文字の上で震えている。光が文字を読もうとし、文字が光を拒みもせず受け入れもせず、ただそこに在る。

こよいが覗き込んだ。文字は三つ。読めない。だが、久遠(くおん)の義眼(ぎがん)だけがそれを読んでいる。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が、いつもより深い色を帯びていた。

「……海図(かいず)を最初に描いた者の名だ」

久遠(くおん)が呟いた。

「観測者(かんそくしゃ)でも、最初の神でもない。名前を地下に逃がすための道筋を、最初に引いた者。俺は——その記録を、どこかで読んだことがある」

「どこで?」

「思い出せない。だが、この文字を見た瞬間に、手が覚えている」

久遠(くおん)は自分の右手を見た。義眼(ぎがん)ではなく、手を。  指先が微かに震えている。記憶にないのに、身体が反応している。名前とは、そういうものなのだ。頭が忘れても、身体が覚えている。文字を見ただけで指が震える。その震えが、記憶の代わりになる。

あさひが黙って久遠(くおん)の横に立った。肩は触れない。ただ、風を遮(さえぎ)るように立っている。あさひの大きな身体が、霧(きり)と潮風から久遠(くおん)を隔てていた。

「思い出さなくていい。持っていけばいい」

あさひの声は低く、短かった。

久遠(くおん)は目を閉じ、それから頁(ページ)をゆっくり閉じた。  海図(かいず)の名を描いた者の文字が、目録(もくろく)の革表紙の下に沈む。  消えたのではない。しまわれたのだ。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸の前で抱えた。神々が脈打つ。標柱(ひょうちゅう)の文字に呼応するように、弱く、長く。港の名と、海図(かいず)を描いた者の名と、巾着(きんちゃく)の中の名前たちが、それぞれの位置で静かに震えていた。

おたまは標柱(ひょうちゅう)の根元に座り、久遠(くおん)の震える右手を、下からじっと見上げていた。それから、慰めるでも急かすでもなく、ただ一度、久遠(くおん)の脛(すね)に尻尾を巻いた。

三人は標柱(ひょうちゅう)を背にして歩き出した。  霧(きり)が少しだけ薄くなっている。港の名を持ったぶんだけ、道が固い。石畳(いしだたみ)を踏む靴底の感触が、さっきより確かになっている。  久遠(くおん)の右手は、まだ微かに震えていた。  その震えを、誰も指摘しなかった。潮風だけが、三人の背中を押していた。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます