第314話 古い札
314

第314話 古い札

第11章 海図の響き

辺境の森の道は、三日目に、下りに変わった。  銀灰色の木々が薄れ、土に潮の気配が混じり、道の果てに古い港が現れた。久遠くおんは目録の余白の記録と照らし、低く言った——「北の、海図の港だ。南のあの港と、同じ名を持つ対の施設。海図を最初に描いた者が、南北に一対で置いたと、写しにはあった」。最初の神の足取りも、神々の脈も、この海沿いの北を指している。  港の入り口には、崩れた市場いちばの跡があった。屋台の骨組みだけが並ぶ石の広場。その一角、倒れた帳場台の下から、久遠くおんが油紙の包みを見つけた。中身は写しの束——最初の神の筆で、十四枚。売り買いの記録に紛れて、名前がかくまわれていたのだ。ただし、と久遠くおんは言った。「この十四枚は、まだ死んだ紙だ。墨の井戸に触れていない」——生きた受け皿になるには、源との接続が要る。  港の際で、霧列車きりれっしゃの短い支線に乗った。それを降りてから、どれくらい歩いたのだろう。

海図かいずの港の最果さいはてには、潮の匂いよりも先に、冷えた鉄の匂いがあった。さびの匂いとも違う。金属が長い時間をかけて空気に溶け出した、乾いた鉄の気配。舌の奥に薄い苦味が広がり、のどを通るたびに微かにひりつく。  波打ち際へ伸びる石の道は、いつの時代の誰が敷いたのか分からないまま、きりの中へと溶けている。石の表面は滑らかに磨かれ、長い年月のあいだに無数の足に踏まれたことが分かる。だが今は誰の足音もない。  足元の石は濡れていないのに、触れれば指先が冷たくしびれた。冷たさが骨に届くまでの速さが、普通の石とは違う。

ここでは「濡れる」のが水ではなく、記録なのだと、身体が先に理解してしまう。

その向こうに、があった。

浜のではない。  町のでもない。

点のように小さく、遠すぎて揺れも見えないのに、確かに消えずに残っている光。  きりの層の奥で、誰かが合図のように掲げ続けている。きりが厚くなるほど、その際立きわだった。周囲のやみが濃ければ濃いほど、一点の光は鋭くなる。

こよいはまたたきを忘れた。近づけないからこそ、は落ち着いて見えた。  届かないまま残る光は、うそをつく余地が少ない。

うそは、もっと近くで、もっと派手に揺れる。

「……距離が合わないな」

久遠くおん目録もくろくを閉じた。革表紙の上に指をわせ、紙の束の厚みを確かめるようにしている。

義眼ぎがんの蒼い光が一瞬だけ鋭くなり、すぐに沈む。の方角を測ろうとして、情報が足りずに引き返した光だった。

「地図の上では、ここから先は『白』だ。なのにがある。……誰かが、白の上に文字を書いてる」

「誰か、って……観測者かんそくしゃ?」

こよいが問うと、久遠くおんは肩をすくめた。

観測者かんそくしゃでも、神でも、誰でもいい。問題は、が『こちらを測ってる』か、『こちらを待ってる』か、だ」

こよいは巾着きんちゃくを握り直した。  神々の温もりが、遠いの冷たさとぶつかって、胸の奥で小さく鳴った。温もりと冷たさがてのひらの中でせめぎ合い、巾着きんちゃくの布が微かに震える。

「……あの、呼んでるのかな」

「呼ぶなら、代償だいしょう付きだ」

久遠くおんはそう言ったが、目はかららさなかった。  怖れているというより、計算している顔だった。義眼ぎがん蒼光そうこうが消えた状態でも、もう片方の目がの位置を正確に追い続けている。

あさひは黙って、剣のつかに手を置いた。きりの中へ視線を投げる。視線の先には何も見えないはずだが、あさひの目は見えないものの気配を拾っている。鼻先が微かに動き、空気を読んでいた。

「……遠いってのは、いい」

「え?」

「近いわなは、匂いが濃い。遠いは、匂いが薄い。……薄いってことは、まだ『選べる』」

あさひの言葉は乱暴なのに、不思議と安心が混じっていた。選べる。近づくも離れるも、まだ自分たちの足で決められる。

こよいは息を吐き、足元の石を一歩確かめた。は、まだ遠いまま、こちらの目から逃げない。石の道がきりの中に続き、その先のどこかにがある。道とが繋がっているのかどうかは分からない。だが、同じ方角を向いている。

この旅は、の距離を測り直す旅なのだと、こよいは思った。届かない光に、届くふりをせず、届くまで歩く。その当たり前が、ここでは一番難しい。

きりの向こうで、は小さくまたたいた。消えそうで、消えない。そして、光の点の周りだけ、きりがほんのわずか薄くなっている。きりを押し返しているのだ。小さな光が、自分の周囲だけは守っている。

久遠くおんささやいた。

「……待ってる。……少なくとも、今は」

こよいはうなずいた。

鈴は鳴らない。でも、は遠くで生きている。

が一つあるということは、井戸いどが一つ生きているということだ。名前がまだそこに住んでいて、光を灯し続けている。の数だけ、名前が残っている。

だが間隔かんかくが広い。

こよいはそれに気づいていた。最初に見えたの左にも右にも、次のがない。暗いきりが長く続き、やっと次の光が見える。その間隔かんかくが、港に近づくほど広がっていた。

「……が減ってる」

「減ったんじゃない。消されたんだ」

久遠くおん目録もくろくを開いた。ページの上に、海図かいずの線が走っている。線の上にの位置を書き込んでいくと、かつてはもっと密に並んでいたことが分かった。書き込みの合間に、久遠くおんの筆が止まる場所がある。があったはずの座標ざひょうに、何もない。空白が、消された井戸いどの数を語っている。

「この間隔かんかくなら、昔は十歩ごとにがあった。今は三百歩に一つだ。観測者かんそくしゃ井戸いどを潰した跡が、そのまま闇になっている」

三百歩の暗闇くらやみ。その中を、名前なしで歩く。

こよいは遠いを見た。小さく、頼りなく、それでも消えずにいる。そのに向かって歩くことだけが、今できる全てだった。

あさひが先に立った。大きな背中がきりの中に半分溶け、残りの半分だけがこよいの視界に残っている。

「行くぞ。がある方に。暗いところは俺が先に踏む」

足音が石の道を叩く。三人分の足音だけが、きりの中に規則正しく響いた。

三百歩の暗闇を、数えながら歩いた。二百九十、二百九十五——三百。  の下に、着いた。  小さな井戸だった。縁に、木の札が一枚、括り付けられている。潮風に晒されて白茶け、角の丸くなった、古い札。表には、名前がひとつ。読める。生きた井戸の、生きた名前。裏には、書き付けた者の細い字で、こうあった——『まだ、いる』。  白の上に文字を書いている誰かは、この札の主だ。灯を確かめて回り、生きている井戸に札を残していく誰か。  おたまが、札の匂いを長いこと嗅いでいた。

「井戸が生きているなら——」

久遠くおんが振り返った。「水脈は、地下で全部繋がっている。三つの町の井戸が経蔵の測定口だったように、生きた井戸の水は、源の墨と同じ網の中にある。市場の十四枚を、ここで満たせる」

こよいは十四枚を、一枚ずつ井戸の水面に浮かべた。紙が水を吸い、最初の神の筆跡が滲む——かと思えた。滲まなかった。逆だった。薄れていた文字が、水を吸って濃くなっていく。墨の井戸で見たのと、同じ満ち方だった。  十四枚が、生きた受け皿になった。経蔵の三十七と合わせて、五十一。ここで初めて、写本の束は五十一の錨になった。

次のは、また遠い。  遠いまま、消えない。その遠さと、古い札の『まだ、いる』が、今は一番確かな道標みちしるべだった。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます