第307話 雫の兄
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第307話 雫の兄

第10章 波の端

列車の中で、こよいは写本しゃほんひざの上に広げた。  経蔵きょうぞうから持ち出した紙の束。  崩壊ほうかいの中を走り抜ける間も、一枚も落とさなかった。  紙の角が少し折れ、ほこりで薄く汚れているが、文字は全て読める。指先で角の折れ目をそっと伸ばすと、紙が微かにきしんだ。古い紙特有の、乾いた繊維せんいが擦れる音だった。

久遠くおん義眼ぎがん写本しゃほんを照らした。

蒼光そうこうの下で、金色の筆跡ひっせきがくっきりと浮かび上がる。文字は一つ一つが丁寧に書かれていて、筆の迷いがなかった。何百回も同じ動作を繰り返した者の手癖が、紙の上に残っている。

「名前の復元写本ふくげんしゃほん間引まびかれた神々の記録。全部で——三十七柱はしら分」

こよいは一枚ずつめくっていった。  一柱ひとはしらごとに、名前と記憶が記されている。  好きだった場所。

得意だったこと。  最後に交わした言葉。

紙の質が一枚ずつ微妙に違った。厚いもの、薄いもの、繊維せんいの粗いもの。最初の神は手に入る紙を選ばず、あるものに書いたのだろう。だがどの紙にも、すみ均一きんいつに載っていた。紙の質に合わせて筆圧を変え、一枚一枚を同じ丁寧さで仕上げている。

七枚目で、巾着きんちゃくが跳ねた。  文字通り、跳ねた。  腰に結んだ巾着きんちゃくが上にはずみ、ひもが引っ張られた。  神々が中で暴れている。布越しに光が漏れ、こよいのひざの上の写本しゃほんを照らした。

こよいはそのページを見た。

名前が書かれている。

その名前の横に、小さく一文字——。

「兄」

久遠くおん

こよいの声が震えた。

「読んで」

久遠くおんページを受け取り、義眼ぎがんで文字を追った。蒼光そうこうが紙面を滑り、金色の文字を一行ずつ照らし出していく。

「名前は——雨の神を守る者。役割は、雨の小さな神々の世話。間引まびきの理由は『上位互換じょういごかんの存在により不要と判断』」

久遠くおんが次の行を読んだ。

「記憶——生まれたときから雨の神と一緒にいた。雨の神が泣くと空が曇った。雨の神が笑うと虹が出た。最後に会ったとき、雨の神に言った言葉は——」

久遠くおんの声が詰まった。義眼ぎがん蒼光そうこうが一瞬だけ揺らぎ、紙の上の影が震えた。

「『おまえはここにいろ。俺が先に行って、道を作っておくから』」

巾着きんちゃくが熱くなった。

布越しに、光があふれ出していた。  神々が全力で脈打っている。脈の一つ一つが強く、速く、こよいの腰骨に振動が伝わるほどだった。

覚えている。

この言葉を覚えている。

兄が最後に言った言葉を。

こよいは巾着きんちゃくを両手で包んだ。  熱い。

涙のように熱い。布の繊維せんいから光が染み出し、こよいの指の隙間を金色に照らしている。神々の光はいつも淡いものだったが、今は違った。全身で叫んでいるような光だった。

「知らなかった」

こよいの声がかすれた。

「この子に、兄弟きょうだいがいたこと。知らなかった」

巾着きんちゃくの温度が、さらに上がった。知らなかったことを責めているのではない。知ってくれたことに応えている。ずっと伝えたかったのだ。兄がいたことを。兄が何を言い残したのかを。

あさひが窓際に座ったまま、黙っていた。  しばらくして、口を開いた。

「そいつは——まだどこかにいるのか」

久遠くおんページの余白を読んだ。

最初の神の手記しゅきが、小さな文字で書き足されていた。他の文字よりも筆圧が強く、紙の裏まですみにじんでいた。

「『この子の名を、間引まびきの台帳だいちょうから消すことはできた。だが、消された後の行き先は分からない。ことわりの外に放り出されたのか、情報のちりとなって散ったのか。私にも分からない。だが、書き残す。この子がいたことを忘れてはならない。この子たちは選ばれなかったのではない。選ばれる前に消されたのだ』」

こよいの涙が写本しゃほんの上に落ちた。  紙がはじいた。  涙が紙の上で丸い粒になり、転がった。  染み込まない。

すみが特殊だ」

久遠くおんが紙の表面を見た。涙の粒が金色の文字の上を滑り、紙の端に向かって転がっていく。文字は一画もにじまなかった。

「涙で消えないように、すみに何かが混ぜてある。最初の神は、この写本しゃほんが泣きながら読まれることを想定そうていしていた」

こよいは涙をぬぐわなかった。  写本しゃほんの上の涙の粒が、巾着きんちゃくの光を受けて小さく光っていた。  列車が揺れるたびに、粒が紙の上を転がった。

消えない文字の上を、消えない涙が転がっていく。

巾着きんちゃくの中で、神々がまだ震えていた。  兄の名前を読んだ瞬間から、止まらなくなっている。震えの合間に、温もりの波が一つずつ押し寄せてくる。悲しみと安堵あんどが交互に。知ってもらえた安堵あんどと、もう会えない悲しみが。

閉じる前に、こよいはふと、帳面を出した。忘却の海の浜で拾った、欠けた名前のページ。あの「知っている気がする」名前を、写本しゃほんの三十七柱と、一枚ずつ照らし合わせていく。  二十三枚目で、指が止まった。  同じ名前だった。最後の一画が欠けたあの文字と、写本しゃほんに丁寧に記された完全な名前。浜に流れ着いた頁は、この三十七柱のうちの、一柱の欠片かけらだったのだ。忘却の海が呑みきれずに、吐き戻した一枚。  こよいは欠けたページを、写本しゃほんのその一枚に、そっと重ねた。欠けた一画に浮かんでいた薄い線が、少しだけ、濃くなった。

おたまが、膝の上の写本しゃほんに顎を乗せて、目を閉じていた。三十七の名前の上で、猫の呼吸が、ゆっくりと上下している。

こよいは写本しゃほんを丁寧に閉じ、胸に抱いた。  壁の向こうに、まだ見つかっていない名前がある。  雨の神の兄が歩いたはずの、道がある。

列車の窓の外で、きりが薄く光った。  海の匂いが、微かに混じっていた。

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