第265話 座標の書き換え
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第265話 座標の書き換え

第9章 地図の折返し

墓場の下で見つけた線路を辿たどると、半刻もしないうちに、霧列車きりれっしゃが待っていた。屋根も柱もない、ただ線路の膨らみだけの乗り場に、扉を開けて。乗るべき者の前に現れる列車は、北の果てでも変わらなかった。

乗ってしばらくして——窓の外が、ずれていた。

列車は走っている。車輪が線路をむ音がする。規則的な振動が座席を通して背中に伝わり、それだけなら南から乗ってきた列車と変わらない。だが、窓の向こうに見える風景が一定しない。線路の先にあるはずのきりが途切れ、代わりに見知らぬ石橋が横切り、消えた。橋の欄干らんかんこけが生え、こけの一葉一葉まで見えたのに、瞬きをする間もなく消え去った。次の瞬間には、古い民家の屋根が斜めに傾いて現れ、沈んだ。屋根のかわらが一枚ずつ剥がれながら。

座標ざひょうがずれている」

久遠くおん目録もくろくを開いたまま言った。義眼ぎがん蒼光そうこうページを走っている。金色の筋がいつもより激しく明滅し、ページの表面に細かな光の波紋はもんを作っていた。

「ずれてるのは景色けしきのほうだ。線路は動いていない。だが線路の周囲の座標ざひょうが不安定で、本来別の場所にあるものが、この空間に流れ込んでいる」

こよいは窓硝子まどがらすに手を当てた。冷たい。振動がある。列車の振動ではなく、硝子ガラスの向こう側で何かがきしむ音の振動だった。空間そのものが軋んでいる。

景色がまた変わった。今度は水面だった。池か沼のような平らな水面が、窓の外に一瞬だけ広がり、波紋はもんも立てずに消えた。消える直前、水面にこよいの顔が映った。だが映った顔は、今の自分より少し幼かった。頬の線が丸く、目がもう少し大きい。まだ旅を始める前の、誰かの名前を知る前の顔。

「見るな」

久遠くおんが言った。声に力がこもっている。

「流れ込んでいる風景には、過去の座標ざひょうが含まれている。見続けると、自分の現在位置がぶれる」

「現在位置?」

「お前がどこにいるか、という情報そのものが揺らぐ。座標ざひょうのずれに引きずり込まれる」

こよいは手を離した。指先に、硝子ガラスの冷たさが残っている。冷たさの質が妙だった。温度ではなく、距離の冷たさ。指先が、今ここにいることの確かさを少しだけ失った感覚。巾着きんちゃくが不穏に脈打っていた。神々が落ち着かない。いつもの温もりはあるが、方向が定まらない。北を指していたはずの脈動が、四方に散っている。

あさひは座席に座ったまま、窓を見ていなかった。目を閉じて、大剣のさやに手を置いている。両手ではなく片手だけをさやに添え、もう片方はひざの上に置いている。

「あさひ、見ないの」

「見たところで斬れないものは見ない」

車体が大きく揺れた。座席がきしみ、天井の行灯あんどんが横に振れた。行灯あんどんの白い光が車内を斜めにき、影が壁を走った。窓の外に、列車より大きな影が横切った。建物だった。三階建ての木造の建物が、列車のすぐ横を通過していった。通過、ではない。建物の方が動いていた。窓に格子がはまり、暖簾のれんの千切れた跡が軒先に揺れている。座標ざひょうを失った建物が、行き場を探してただよっている。

久遠くおんページをめくった。

「この区間の座標ざひょうは、もともと不安定だった。記録が曖昧あいまいな場所は座標ざひょうが固定されにくい。ここは——記録されなかった場所が集まる水溜みずたまりのようなものだ」

「水溜り」

「誰にも書かれなかったものが流れ着く場所。名前もない。座標ざひょうもない。だから、あちこちのものが混ざり合ってただよう」

列車が速度を落とした。車輪の音が変わり、きしみが深くなった。線路自体が歪んでいるのかもしれなかった。座席の振動が不規則になり、こよいの体が小さく揺さぶられた。

こよいは巾着きんちゃくを胸に押し当てた。神々の脈動を手のひらで感じる。散っていた方向が、少しずつ収束していく。北。まだ北を向こうとしている。巾着きんちゃくの温もりが手のひらを通して胸に伝わり、その温もりに引き寄せられるように脈動が集まっていった。

「この子たちは迷ってない」

こよいが言った。久遠くおんが顔を上げた。

巾着きんちゃくの中の神々。座標ざひょうがずれても、北を向いてる。名前を持ってるから。自分がどこにいるか知ってるから、ずれに巻き込まれない」

久遠くおん義眼ぎがんをこよいの巾着きんちゃくに向けた。蒼光そうこう巾着きんちゃくの布を透かし、中の光を照らす。光の粒が一つの方向に揃って脈動しているのが、蒼い光の中に浮かび上がった。

「……なるほど。名前が座標ざひょういかりになっている。名を持つものは漂わない」

「だから名を奪われた神は漂うんだ」

あさひが目を開けた。見ていなかったはずなのに、窓の外を指した。漂う建物の壁に、消えかけた文字があった。かつてそこに掛けられていた表札ひょうさつの跡。名前が剥がれた壁だけが、行き場を失って漂っている。表札ひょうさつくぎの穴が二つ、壁に黒い点として残っていた。

列車が再び速度を上げた。窓の外の風景が安定し始めた。漂流物ひょうりゅうぶつが減り、きりだけが戻ってくる。座標ざひょうの水溜りを抜けたらしかった。車輪の音が規則的に戻り、座席の振動が穏やかになった。

こよいは巾着きんちゃくから手を離した。神々の脈動が北に戻っている。

久遠くおん目録もくろくに書き留めた。短い一文だった。

「『名は座標ざひょうである。名なき者は漂う』」

あさひがさやから手を離し、肩の力を抜いた。

「漂わないために名がある。名を拾うのは、帰る場所を作ることか」

誰にともなく言った。列車は走り続けた。窓の外に、きりだけが流れていた。  座標の乱れる区間を抜けても、おたまは座席から一度も顔を上げなかった。ずれる景色に映る過去も、剥がれる建物も、猫の眠りには触れられない。名といういかりより、もっと深いところに、この猫は繋がれている——こよいはぼんやりと、そう思った。

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