墓場の下で見つけた線路を辿ると、半刻もしないうちに、霧列車が待っていた。屋根も柱もない、ただ線路の膨らみだけの乗り場に、扉を開けて。乗るべき者の前に現れる列車は、北の果てでも変わらなかった。
乗ってしばらくして——窓の外が、ずれていた。
列車は走っている。車輪が線路を噛む音がする。規則的な振動が座席を通して背中に伝わり、それだけなら南から乗ってきた列車と変わらない。だが、窓の向こうに見える風景が一定しない。線路の先にあるはずの霧が途切れ、代わりに見知らぬ石橋が横切り、消えた。橋の欄干に苔が生え、苔の一葉一葉まで見えたのに、瞬きをする間もなく消え去った。次の瞬間には、古い民家の屋根が斜めに傾いて現れ、沈んだ。屋根の瓦が一枚ずつ剥がれながら。
「座標がずれている」
久遠が目録を開いたまま言った。義眼の蒼光が頁を走っている。金色の筋がいつもより激しく明滅し、頁の表面に細かな光の波紋を作っていた。
「ずれてるのは景色のほうだ。線路は動いていない。だが線路の周囲の座標が不安定で、本来別の場所にあるものが、この空間に流れ込んでいる」
こよいは窓硝子に手を当てた。冷たい。振動がある。列車の振動ではなく、硝子の向こう側で何かが軋む音の振動だった。空間そのものが軋んでいる。
景色がまた変わった。今度は水面だった。池か沼のような平らな水面が、窓の外に一瞬だけ広がり、波紋も立てずに消えた。消える直前、水面にこよいの顔が映った。だが映った顔は、今の自分より少し幼かった。頬の線が丸く、目がもう少し大きい。まだ旅を始める前の、誰かの名前を知る前の顔。
「見るな」
久遠が言った。声に力がこもっている。
「流れ込んでいる風景には、過去の座標が含まれている。見続けると、自分の現在位置がぶれる」
「現在位置?」
「お前がどこにいるか、という情報そのものが揺らぐ。座標のずれに引きずり込まれる」
こよいは手を離した。指先に、硝子の冷たさが残っている。冷たさの質が妙だった。温度ではなく、距離の冷たさ。指先が、今ここにいることの確かさを少しだけ失った感覚。巾着が不穏に脈打っていた。神々が落ち着かない。いつもの温もりはあるが、方向が定まらない。北を指していたはずの脈動が、四方に散っている。
あさひは座席に座ったまま、窓を見ていなかった。目を閉じて、大剣の鞘に手を置いている。両手ではなく片手だけを鞘に添え、もう片方は膝の上に置いている。
「あさひ、見ないの」
「見たところで斬れないものは見ない」
車体が大きく揺れた。座席が軋み、天井の行灯が横に振れた。行灯の白い光が車内を斜めに掃き、影が壁を走った。窓の外に、列車より大きな影が横切った。建物だった。三階建ての木造の建物が、列車のすぐ横を通過していった。通過、ではない。建物の方が動いていた。窓に格子がはまり、暖簾の千切れた跡が軒先に揺れている。座標を失った建物が、行き場を探して漂っている。
久遠が頁をめくった。
「この区間の座標は、もともと不安定だった。記録が曖昧な場所は座標が固定されにくい。ここは——記録されなかった場所が集まる水溜りのようなものだ」
「水溜り」
「誰にも書かれなかったものが流れ着く場所。名前もない。座標もない。だから、あちこちのものが混ざり合って漂う」
列車が速度を落とした。車輪の音が変わり、軋みが深くなった。線路自体が歪んでいるのかもしれなかった。座席の振動が不規則になり、こよいの体が小さく揺さぶられた。
こよいは巾着を胸に押し当てた。神々の脈動を手のひらで感じる。散っていた方向が、少しずつ収束していく。北。まだ北を向こうとしている。巾着の温もりが手のひらを通して胸に伝わり、その温もりに引き寄せられるように脈動が集まっていった。
「この子たちは迷ってない」
こよいが言った。久遠が顔を上げた。
「巾着の中の神々。座標がずれても、北を向いてる。名前を持ってるから。自分がどこにいるか知ってるから、ずれに巻き込まれない」
久遠は義眼をこよいの巾着に向けた。蒼光が巾着の布を透かし、中の光を照らす。光の粒が一つの方向に揃って脈動しているのが、蒼い光の中に浮かび上がった。
「……なるほど。名前が座標の錨になっている。名を持つものは漂わない」
「だから名を奪われた神は漂うんだ」
あさひが目を開けた。見ていなかったはずなのに、窓の外を指した。漂う建物の壁に、消えかけた文字があった。かつてそこに掛けられていた表札の跡。名前が剥がれた壁だけが、行き場を失って漂っている。表札の釘の穴が二つ、壁に黒い点として残っていた。
列車が再び速度を上げた。窓の外の風景が安定し始めた。漂流物が減り、霧だけが戻ってくる。座標の水溜りを抜けたらしかった。車輪の音が規則的に戻り、座席の振動が穏やかになった。
こよいは巾着から手を離した。神々の脈動が北に戻っている。
久遠は目録に書き留めた。短い一文だった。
「『名は座標である。名なき者は漂う』」
あさひが鞘から手を離し、肩の力を抜いた。
「漂わないために名がある。名を拾うのは、帰る場所を作ることか」
誰にともなく言った。列車は走り続けた。窓の外に、霧だけが流れていた。 座標の乱れる区間を抜けても、おたまは座席から一度も顔を上げなかった。ずれる景色に映る過去も、剥がれる建物も、猫の眠りには触れられない。名という錨より、もっと深いところに、この猫は繋がれている——こよいはぼんやりと、そう思った。
