第243話 記録の解氷
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第243話 記録の解氷

第8章 砂の境

つききょうの峡谷の奥に、岩を掘り込んだ書庫があった。  名前が生まれる前の場所に、最古の記録を仕舞しまったむろ——岩壁がここでは棚の形に広がり、凍りついた記録を棚ごと抱えている。木の表面にしもが張り、触れると指先が貼りつく。こよいは袖口そでぐちを引き伸ばした布越しに棚のふちをなぞり、しもの厚みで凍結とうけつの深さを測った。浅いものは爪で削れるが、深いものは石のように硬く、指先の熱を吸い込んで返さない。

久遠くおん目録もくろくを開き、ページの上に義眼ぎがんの蒼い光を落とした。

「……この棚、全部凍ってる。名が読めない」

こよいは隣の棚に手を当て、布越しに冷えが伝わるのを確かめた。

「前に名を返したとき、巾着きんちゃくの温もりが効いたよね。あれをもう一度できないかな」

久遠くおんページりながら、指先でひとつの記述を押さえた。

「あのときは一件だけだった。ここには何十もある。雨の神の熱だけでは足りない」

あさひは棚と棚の間に背を預け、腕を組んだまま天井を見上げていた。石の継ぎ目から冷気が降りてくる。呼吸のたびに白いもやが口元に残り、すぐに消える。

「足りないなら、道を作れ。熱を一点に集めるんじゃなく、流す」

久遠くおん義眼ぎがんまたたいた。目録もくろくページに視線を落とし、指で文字の列を辿たどる。

「……導管どうかんか。目録もくろくを媒介にして、雨の神の温もりを凍った記録へ流す。原本との接続を利用すれば、目録もくろくが管の役割を果たせる」

こよいは巾着きんちゃくを胸の前に持ち上げ、布の上から神々の脈動を確かめた。温い。いつもより少し強く、鼓動のように規則正しく打っている。

「ねえ、聞こえてる?」

巾着きんちゃくの中で微かな光が揺れた。応えるように温度が一段上がり、こよいのてのひらが汗ばんだ。

久遠くおん目録もくろくを棚の前に置き、開いたページを凍った記録に向けた。義眼ぎがんの光がページの上を走り、文字が蒼く浮かび上がる。こよいは巾着きんちゃく目録もくろくの背に当て、布越しの温もりを紙へ伝えた。

最初は何も起きなかった。  冷えた空気が指の間を通り抜け、巾着きんちゃくの温もりをはしから奪おうとする。こよいは唇を引き結んで温もりを送り続けた。

やがて、目録もくろくページの端が微かに湿り始めた。湿りは紙の繊維せんいに沿って広がり、蒼い光と混じり合いながら、棚の記録へ向かって細い筋を描いた。筋が凍った表面に触れた瞬間、しもが薄く溶け、水滴が一粒、棚板の上に落ちた。

「動いた」

久遠くおんが声を抑えて言った。義眼ぎがんの光が強まり、目録もくろくの文字が次々と浮かび上がる。文字の列が導管どうかんとなり、雨の神の温もりを凍った記録へ運んでいく。

しもが解ける音は、氷を割るような鋭さではなかった。  雪が陽に触れて静かに縮むような、ゆるやかな溶け方だった。溶けた水が霜の下からにじみ出し、木目もくめに沿って細い川を作る。凍りついていた名前が一文字ずつ姿を現し、木の表面に刻まれた筆跡ひっせきが濡れた色を取り戻していく。すみの匂いが微かに立ち、それが記録が生きていた頃の名残なのだと、こよいの鼻が教えた。

「……読める。名が戻ってる」

こよいがささやくように言った。巾着きんちゃくの温もりは衰えず、神々は脈動を続けている。二件目の記録に手を伸ばし、同じ手順を繰り返した。目録もくろく導管どうかんとして機能し、温もりが流れ、しもが溶ける。三件目、四件目と進むうちに、手順は滑らかになった。

だが三件目を終えたあたりから、こよいはてのひらに伝わる神々の拍動が変わったことに気づいていた。一回ごとの脈が浅くなり、温もりの芯が細くなっている。四件目では、巾着きんちゃくを押し当ててから温もりが紙に届くまでに、息をひとつ数えるほどのが空いた。

五件目を終えたとき、こよいはてのひらの中の変化に気づいた。  巾着きんちゃくが、軽い。

重さそのものが減ったわけではない。温もりの厚みが薄くなっている。さっきまでてのひら全体を包んでいた熱が、指先の半分ほどしか届かなくなっていた。布の下で神々の光がか細くともり、脈のたびに明滅を繰り返す。まるで深く眠りかけた生き物の寝息のように、頼りなく、けれどまだ途切れてはいない。

久遠くおん

「……分かってる」

久遠くおん目録もくろくを閉じ、ページの端に残った湿りを指でぬぐった。

「雨の神の温もりは、ただの熱じゃない。生きている温度だ。凍った記録を溶かすたびに、その分だけ神々自身のぬくみが削られる。一件ごとに命の厚みを薄くがしているのと同じだ。戻ってくる保証もない」

こよいは巾着きんちゃくを胸に抱き寄せ、布越しに神々の脈を探った。まだ打っている。だが、さっきより遅い。鼓動と鼓動の間が長くなり、温もりが戻るまでに一拍の隙間ができている。

「……無理させた?」

巾着きんちゃくの中で、光が弱くまたたいた。否定するように、もう一度だけ温度が上がる。だがその温もりは長く続かず、すぐに元の薄さへ戻った。

あさひが壁から背を離し、二人のそばに寄った。凍った棚を見渡し、まだ解けていない記録の数を数えるように視線を動かす。

「残りは多い。全部やるつもりか」

おたまが、短くひと声鳴いた。岩室いわむろに響いたその声は、はっきりと制止の色をしていた。

こよいは首を振った。

「今日はここまでにする。神々を休ませないと」

あさひはうなずき、それ以上は何も言わなかった。

久遠くおん目録もくろくを懐に仕舞しまい、解凍した五件の記録を順に読み上げた。名前、土地、時期。凍結とうけつされる前の情報が、冷えた空気の中に声として戻る。こよいはその声を聞きながら、巾着きんちゃくの上に両手を重ねた。

方法は見つかった。目録もくろく導管どうかんにすれば、凍った記録を一件ずつ溶かせる。  だが、溶かすたびに神々がせる。温もりは無限ではない。五件で失われた熱がどれほどのものか、こよいのてのひらだけが知っていた。

こよいは巾着きんちゃくを胸に押し当て、布越しの温もりが自分の体温と混じるのを待った。神々の脈動がゆっくりと戻り、こよいの鼓動と重なる。  岩室いわむろの冷気が足元から這い上がり、解けた水滴が棚板の上で静かに光っていた。

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