第240話 砂灯の夜
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第240話 砂灯の夜

第8章 砂の境

霧(きり)の中に、灯火(ともしび)が一つだけ残っていた。周りには家も道もない。  停車場(ていしゃじょう)の柱もない。

峡谷(きょうこく)の岩壁から離れて平坦な砂地に出たとき、三人の足はほぼ同時に止まった。岩の匂いが遠のき、代わりに湿った砂の無臭が鼻先を覆う。霧(きり)が低く這(は)い、足首を巻くように広がっている。その白い靄(もや)の中に、ぽつりと灯(ひ)が見えた。火種(ひだね)の色ではない。水面に月が映るときのような、硬くて静かな光だった。

ただ、平たい石の上に置かれた小さな灯火(ともしび)。石の表面は霧(きり)に濡れて黒く光っている。芯(しん)だけが黒く、しなだれている。周囲の砂には足跡がなかった。風の跡すらない。ここに何かを運んできた者の気配だけが、砂粒の並び方にわずかに残っていた。  霧(きり)の底は、夜に沈みかけていた。

「砂の境(さかい)だ」

久遠(くおん)が言った。

「峡谷(きょうこく)の岩と、海へ続く砂の——境目の土地。古い路線図に、その名で載っていた」

こよいは灯火(ともしび)の前に膝(ひざ)をついた。砂が膝の下でわずかに軋(きし)み、冷たさが布越しに皮膚へ染みる。指で触れると、冷たいのに、消えたままではいない気配がある。硝子(ガラス)も木枠(きわく)もない、むき出しの灯火(ともしび)だった。風が吹けばすぐに消えそうなのに、霧(きり)の中で揺れもしない。芯(しん)に触れた指先に、冷たさの奥から微(かす)かな振動が返ってきた。生きている。

「……これ、数えてた灯(ひ)だ」

久遠(くおん)が言葉を落とした。声は低く、霧(きり)に吸われて遠くへ届かない。目録(もくろく)を膝の上に広げ、義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を頁(ページ)に落としていた。

「数えてた?」

こよいが振り返ると、久遠(くおん)の横顔に蒼い光が反射して、こめかみの血管が浮き上がっていた。

「灯見町(とうみまち)の灯台の記録に、そういう欄がある。道に残した灯(ひ)の数。……ここで、二百四十」

二百四十。ただの数字なのに、胸の奥が少しだけ熱くなった。砂の冷たさが膝を通じて骨まで届いているのに、その数字だけが身体の内側に灯(とも)るように温かい。灯見町(とうみまち)——あの灯台の列の町の名前に、こよいは息を呑(の)んだ。あの町で二百四十もの灯(ひ)を数え続けた誰かの手が、こんな遠くの砂の中まで、確かに届いていた。

こよいは巾着(きんちゃく)を灯火(ともしび)に近づけた。雨の神の温もりが伝わる。布越しの熱が砂の冷気と混じり、指先に湿った空気がまとわりついた。

芯(しん)が、ふっと持ち上がった。火ではない。水色に近い、淡い光。芯(しん)の先端で燃えるのではなく、芯(しん)そのものが内側から発光するように、静かに色を帯びていく。光が芯(しん)を伝い、石の台座に薄い輪を描いた。

芯(しん)に灯(ひ)が戻ると、霧(きり)の奥に一本だけ線が見えた。道の線だ。消えかけていた線が、光で縁取られて、もう一度だけ形を保つ。砂と霧(きり)の境が曖昧だった視界に、たった一筋、進むべき方向が浮かび上がった。

あさひが息と一緒に言った。

「……灯(ひ)があれば、進める」

その声には飾りがなかった。短い息の湿り気だけが言葉に添えられていた。だからこそ、霧(きり)の中を真っ直ぐに転がった。

久遠(くおん)は頷(うなず)いた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を一度だけ灯火(ともしび)に向けてから、目録(もくろく)に視線を戻す。

「灯(ひ)は道を作る。道は、次の灯(ひ)へ続く。……だから数える。数えられるものは、まだ消えていない」

こよいは灯火(ともしび)の光を見つめた。二百四十番目の灯(ひ)。誰が置いたのか分からない。でも、今は確かにぼくたちが灯(とも)している。  おたまが灯火(ともしび)の隣に座り、灯(ひ)を見上げた。初めて見るものへの用心が、猫にはまるでなかった。石の上の光が、砂地にうっすらと影を落としていた。三人の影ではない。灯火(ともしび)自身の影だ。形を持つものだけが影を作る。灯(ひ)が戻ったことで、灯火(ともしび)は再び「ここにある」と世界に宣言している。

「……置き手に、追いつこう」

こよいが言うと、雨の神が小さく脈打った。巾着(きんちゃく)の布が内側から押されるように膨(ふく)らみ、すぐに戻る。灯火(ともしび)の光と呼応(こおう)するように、温もりが一拍だけ強くなった。

三人は立ち上がり、灯火(ともしび)を背にして歩き出した。砂を踏む音が三つ重なる。乾いた砂ではなく、霧(きり)を含んだ湿った砂で、靴底が沈むたびに小さな水音が返ってきた。灯(ひ)が遠くなる。それでも、消えない。振り返れば霧(きり)の奥にまだ見えるだろうという確信が、足を前へ運ぶ力になった。

二百四十という数字が、背中の中で小さな支えになっていた。一つずつ灯(とも)されてきた灯(ひ)の連なりが、砂の道の下に埋もれた根のように三人を支えている。

「……二百四十番目の灯(ひ)って、さ」

こよいが小さく言う。声が霧(きり)に触れて輪郭(りんかく)を失いかけたが、消えはしなかった。

「置き手は、どうして数えるんだろう。数えることの意味を、ぼくはまだ上手く言葉にできない」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を軽く叩(たた)き、境の輪郭(りんかく)を感じ取った。革表紙の端が湿っていた。霧(きり)の水分が紙に染みる前に、指で拭(ぬぐ)い取る。

「言葉にできないなら、灯火(ともしび)の形で残せ。声にしなければ、奪われにくい」

あさひが鼻で笑う。短く、だが棘(とげ)のない音だった。

「残すなら、背中でやれ。気配は、前に進む奴のほうに付いてくる」

「……うん」

こよいは振り返らなかった。肩甲骨(けんこうこつ)の間に、灯火(ともしび)の残光がまだ触れているような気がした。

霧(きり)が薄くなるほど、足元の感触が変わる。砂が増え、石が減り、靴底に返る硬さが一歩ごとに違った。湿った砂から乾いた砂へ、乾いた砂から砂利(じゃり)混じりの土へ。地面が少しずつ形を取り戻していく。道の線が光で縁取られているのは、灯火(ともしび)のおかげなのか、それとも歩くこと自体が道を作っているのか。

あさひは剣を抜かずに立っていた。抜くのは最後だと決めている。鞘(さや)の金具が霧(きり)の水滴を弾いて、かすかに光る。三人の影が同じ向きに揃(そろ)うまで、誰も余計な言葉を出さなかった。呼吸の白さだけが、霧(きり)に混じって消えていく。

道の先で、また小さな光が瞬(またた)いた。二百四十一番目の灯(ひ)か、それとも霧(きり)が見せる幻か。

確かめるには、歩くしかない。霧(きり)の冷たさが頬(ほお)に触れ、まつ毛に細かな水滴が並んだ。

こよいは巾着(きんちゃく)の温もりを確かめながら、次の一歩を踏み出した。靴の底が砂利を噛(か)み、乾いた音が霧(きり)の底を走る。灯火(ともしび)は背中で遠くなっていく。だが消えない。消えない灯(ひ)が、道になる。砂の下で、二百四十の数字が静かに脈打っていた。

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