第233話 余白の灯柱
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第233話 余白の灯柱

第8章 砂の境

中陵(ちゅうりょう)の通りを歩いた。

前に来たときと同じ道のはずだったが、見え方が変わっていた。  石畳(いしだたみ)の隙間から、光の筋が走っている。  前回は何もなかった場所に、細い光の線が地面の下から浮かび上がっていた。  線は通りの奥に向かって伸び、やがて一点に収束していく。

「見えるようになったんだ」

こよいが足元の線を跨(また)がないように歩きながら言った。  線の上を踏みそうになるたび、足裏がわずかに熱を感じた。光そのものの温度ではない。身体(からだ)の奥で何かが反応している。

「三つの井戸(いど)を巡って、聖域(せいいき)に触れた。それで目が変わった。前からあったものが、やっと見えるようになった」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を片手に歩いていた。  義眼(ぎがん)は点(つ)けていない。

目録(もくろく)の表紙に走る金色の筋が、地面の光の線と同じ方向を指している。  案内されている。

「この先にあるのか」

あさひが前方を見据えた。

通りの突き当たりに、何かが立っていた。  霧(きり)の中に輪郭(りんかく)だけが見える。

近づくにつれて、霧(きり)が薄くなった。  同時に、空気の質が変わった。肺の底まで冷えるような、乾いた圧が鼻腔(びくう)を通り抜ける。匂いが消えた。石の匂いも、霧(きり)の湿り気も、自分の汗の臭いさえも。何も匂わない空間に踏み込んでいく。

通りの突き当たりは広場になっていた。

広場の中央に、柱が一本立っている。  石でも氷でもない。

光そのものが柱の形をしていた。  銀白色の光が、地面から空に向かって真っ直ぐ伸びている。太さは人ひとり分ほどだが、輪郭が定まらない。近づくと細く見え、離れると太く見えた。視界が距離を正しく測れない。

音が消えた。  三人の足音も、風の音も、呼吸の音さえも。  柱に近づくほど、音という概念そのものが希薄になっていく。  こよいは口を開いた。声を出したつもりだったが、舌が動いた感触だけが残って、空気が何も運ばなかった。

「余白(よはく)の灯(ともしび)」

久遠(くおん)が立ち止まった。  声は出ている。だが音が短い。言葉が口を離れた瞬間に、柱の方へ吸い込まれて消えていく。

目録(もくろく)を開き、頁(ページ)と柱を交互に見た。  頁(ページ)の文字が柱に面した側からわずかに滲(にじ)んでいる。久遠(くおん)は目録(もくろく)の角度を変え、柱に背を向けるようにして読んだ。

「理(ことわり)の制御が最も強い地点。同時に、最も薄い地点でもある」

「強くて薄いって、矛盾(むじゅん)してないか」

あさひが眉を寄せた。

「矛盾しない」

久遠(くおん)の声は平たかった。

「理(ことわり)が全力で押さえ込んでいるから強い。押さえ込まなければならないほど、ここの境界(きょうかい)が脆(もろ)いから薄い」

あさひは柱を見上げた。銀白色の光の表面に、ごく細い亀裂(きれつ)のような暗い線が走っているのが見えた。

「あの黒い筋は」

「裂(さ)け目だ。理(ことわり)が必死に塞(ふさ)いでいる箇所が透けて見えている。この柱の真下に、経蔵(きょうぞう)への道がある」

こよいは柱を見上げた。

銀白色の光は真上に伸びて、やがて霧(きり)に溶けて消えている。  光の柱なのに、周囲は暗い。光を放ちながら、周りの明るさを奪っている。  照らすための光ではなかった。

封じるための光だった。

柱の根元に目を落とすと、広場の石畳(いしだたみ)に文様(もんよう)があった。  光の線が同心円状に広がり、柱を中心にして渦(うず)を巻いている。  文字ではない。

理(ことわり)そのものの構造を平面に写し取ったものだった。

こよいが文様(もんよう)の線を踏んだ。  足裏から振動が伝わった。  低く、重い振動だ。石畳(いしだたみ)を通して骨を伝い、頭の奥まで響く。  世界の骨格の上に立っている。そう思った瞬間、膝の力が一瞬抜けた。

おたまも、文様(もんよう)の上を歩いた。振動は、猫には届いていないようだった。それどころか、猫が横切る間、光の柱のほうが、ほんのわずかに瞬(まばた)きを弱めた——ように、こよいには見えた。

巾着(きんちゃく)が脈打った。  だが温もりではなく、冷たい脈動だった。  巾着(きんちゃく)の表面に触れると、指先が痺(しび)れた。普段は手のひらの温度に馴染(なじ)む布が、石のように冷えている。

神々が怯(おび)えている。

この柱の力は、名前を持つものにとって脅威(きょうい)なのだ。名前を封じるための光の中に、名前の欠片(かけら)を持ち込んだのだから。

「大丈夫」

こよいが巾着(きんちゃく)に手を当てた。両手で包み、自分の体温を送り込むようにして握った。

「すぐに行くから。ここには長くいない」

脈動が少しだけ遅くなった。怯えが消えたのではなく、こよいの手の温度をかろうじて感じ取って、それにしがみついているように思えた。

久遠(くおん)は目録(もくろく)の新しい記述を読み終え、頁(ページ)を閉じた。閉じるとき、柱に面していた側の頁(ページ)の角が白く色褪(いろあ)せているのが見えた。

「経蔵(きょうぞう)の入口はこの真下にある。だが、ここからは入れない。余白(よはく)の灯(ともしび)が塞(ふさ)いでいる。列車で経蔵(きょうぞう)の停車場(ていしゃじょう)まで行く必要がある」

「回り道か」

「この柱の力を正面から突破すれば、目録(もくろく)も巾着(きんちゃく)も壊れる。迂回(うかい)するしかない」

あさひは柱を一瞥(いちべつ)し、背を向けた。  柱を見ていた時間は短かったが、目の奥に銀白色の残像が焼きついていた。瞬(まばた)きしても消えない。

「停車場(ていしゃじょう)はどこだ」

「広場の東。行灯(あんどん)が見えるはずだ」

三人は広場を横切った。

柱から離れるにつれて、音が戻ってきた。  足音が聞こえる。

風が聞こえる。

自分の呼吸が聞こえる。

当たり前の音が、これほど安心させるものだとは知らなかった。

鼻の奥に、石と湿気の匂いが戻った。こよいは無意識に深く息を吸った。匂いがあるというだけで、身体(からだ)がこの場所に繋(つな)がっている実感が戻る。

広場の東の端に、行灯(あんどん)の火が見えた。  小さな停車場(ていしゃじょう)が、余白(よはく)の灯(ともしび)の影に隠れるように建っていた。

こよいは巾着(きんちゃく)の口を押さえ、神々の脈動を自分の呼吸に寄せた。  久遠(くおん)は目録(もくろく)を開かず、指先で頁(ページ)の角だけを撫(な)でた。色褪(いろあ)せた角の感触を確かめるように。  あさひは頷(うなず)き、足の置き方だけで合図を返した。

三人は停車場(ていしゃじょう)へ向かって歩き出した。  柱の銀白色の光が背後で細くなっていく。

振り返らなかった。  前にあるものだけを見て、次の一歩を置いた。

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