第228話 深層の命令書
228

第228話 深層の命令書

第8章 砂の境

霜里しもざとの氷の井戸いどは、前回と同じ場所にあった。  だが、同じものには見えなかった。氷のふたが薄くなっていた。  前回は不透明だったふたの表面に、下の層が透けて見えている。

名前の光が氷の下でぼんやりと動いていた。以前は完全に静止していた光が、今はゆらゆらと揺れている。眠りが浅くなっているのだ。

「溶けてる」

あさひがふたの縁にひざをついて言った。指先で氷の表面を触れ、濡れ具合を確かめた。

「溶けてはいない。薄くなっているだけだ。三つの町を巡ったことで、井戸いどの封印が一段階弱まった」

久遠くおん目録もくろくを開いた。

聖域せいいきで得た新しい記述を参照しながら、蒼光そうこうふたの表面に当てた。  光が氷を透過し、下の層を照らした。  前回は十五尋ひろで底に着いた。  その底の下に、更に深い層があるのが見えた。

暗い氷の壁が、下へと続いている。蒼光そうこうの届く限界を超えても、まだ壁が続いているのが分かる。深さが違う。前回降りた層は浅い棚のようなもので、本当の底はずっと下にあった。

「あれだ」

久遠くおんが目を逸らさずに言った。

かさねが保管されている層だ。降りるぞ」

ふたを割った。

前回より簡単に砕けた。久遠くおん蒼光そうこうを一点に集中させると、氷が蒼白い光に沿って亀裂きれつを走らせ、自ら割れた。

氷の破片が井戸いどの中に落ち、壁面に当たって乾いた音を立てた。その音が井戸いどの深さの分だけ反響し、長く尾を引いて消えた。

三人は壁の手掛かりを使って降りた。  前回と同じ道筋だったが、氷の壁面が変化していた。  名前の光が以前より明るい。壁面の氷の中で文字が淡く光り、三人が降りていくにつれて光の密度が上がった。

完全に凍結されていたはずの名前が、微かにまたたいている。

こよいの巾着きんちゃくが脈打ち始めた。壁の中の名前と同じリズムだった。降りるたびに脈が強くなる。巾着きんちゃくの中の神たちが、壁の向こうの名前を感じ取っている。

十五尋ひろの底に着いた。  前回はここが最深部だった。  氷の床に名前の文字が並んでいた。

だが今、その床の一角にひびが入っている。  ひびの隙間から、冷気とは質の違う空気が漏れていた。  古い空気だった。

何千年も密封されていた空間の空気だった。ほこりの匂いはない。有機物のない、乾いた鉱物の匂い。こよいののどが乾いた。月影井戸つきかげいどで感じたのと同じ、身体の奥の水分が引かれる感覚。

あさひがひびの端を大剣のさやたたいた。  氷が割れ、穴が広がった。

穴の下に、もう一つの空間があった。

「行くぞ」

あさひが先に飛び降りた。

着地の音が深く響く。上の層とは反響が違う。空間が広い。

続いてこよい、最後に久遠くおんが降りた。こよいの着地はひざを曲げて衝撃を殺したが、足裏に伝わる冷たさが上の層の比ではなかった。靴底を通り越して、骨に届く冷たさだった。  おたまは、穴の縁で止まった。  降りてこない。三毛の猫が三人についてこないのは、初めてのことだった。青黒い氷を見下ろす瞳が、針のように細くなっている。この層にあるものを、猫は嫌っていた。

深層の氷は色が違った。  上の層は白い氷だったが、ここの氷は青黒い。  透明度が高く、中に封じられたものがはっきり見える。

名前ではなかった。  名前の塊だった。  一つの氷の中に、何十もの名前が折り畳まれて詰め込まれている。

文字が重なり合い、読めない。  どこからどこまでが一つの名前なのか、判別できなかった。圧縮された文字が歪み、隣の名前と混ざり合っている。

かさね」

久遠くおん義眼ぎがんを当てた。

蒼光そうこうが青黒い氷を貫く。

「一柱ずつ凍結する時間がなかった。まとめて、力ずくで押し込んでいる。名前同士が癒着ゆちゃくを起こしている箇所もある」

こよいは氷の壁に手を当てた。  温もりは感じなかった。

上の層の名前にはまだ体温が残っていたが、ここの名前は冷え切っている。  重ねて押し込まれた圧力で、個々の名前が持っていた熱が潰されていた。

「痛そう」

こよいの声が小さくなった。手のひらを壁に当てたまま、こよいは目を閉じた。聖域せいいきでは氷片ひょうへんに触れて記憶が流れ込んできた。ここでも同じことが起きるかと思った。だが何も来なかった。重ねられた名前たちは、声を出す余裕すらないのだ。

「痛いだろうな。名前にとって、他の名前と癒着ゆちゃくするのは——自分の輪郭りんかくを失うことだ」

久遠くおんは壁面を蒼光そうこう走査そうさし続けた。  かさねの塊が、壁面に沿って何十、何百と並んでいる。  上の層にあった個別の名前とは比較にならない数だった。

「急いでいたんだな。この量を一度に処理するには、相当な理由があったはずだ」

あさひが壁面をこぶしで軽くたたいた。  青黒い氷は硬く、響きが鈍い。

いくさがあったんじゃねえか。名前を奪う側と、守る側の」

久遠くおんは答えなかった。

義眼ぎがんで壁面の最深部を探っている。  蒼光そうこうが一点で止まった。

「ここだ。かさねの最下層に、記録が一つだけ分離されて保管されている。他とは違う。折り畳まれていない、単独の記録だ」

久遠くおんの声が変わった。硬さの中に、微かな緊張が混じっている。

「命令書だ。かさねを実行した際の、指示記録。誰が、いつ、何の理由で、この大量の名前を一度に凍結したのかが書かれている」

義眼ぎがんの光が強まった。

氷の奥の記録に焦点を合わせている。  だが文字は読み取れなかった。  かさねの塊が周囲を覆い、記録を隠すように重なっている。

「読めるか」

あさひがいた。

「ここからでは無理だ。だが、場所は特定できた」

久遠くおん義眼ぎがんの光を落とし、目録もくろくに記録の座標ざひょうを書き込んだ。蒼光そうこうを万年筆のように使い、白いページの余白に座標ざひょうを刻む。

経蔵きょうぞうの本体にある原本と照合すれば、読める」

こよいは青黒い氷の壁から手を離した。  手のひらに、冷たさだけが残った。  温もりのない冷たさだった。

こよいは巾着きんちゃくを見下ろした。神々が弱く脈打っている。壁の中の名前たちの分まで、悲しんでいるような脈動だった。

深層の闇の中で、かさねの塊が微かにきしむ音がした。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます