第208話 不完全な未来
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第208話 不完全な未来

第7章 灯の距離

視界が白くなった。  一瞬だった。瞬きの間に、こよいは別の場所に立っていた。

あさひと久遠(くおん)の姿はない。足元の砂利(じゃり)が消え、代わりに柔らかい土の感触がある。周囲は広い野原で、草が膝まで伸びていた。穂先が風に揺れて、乾いた音を立てている。空が高い。雲はない。

空に名前が漂(ただよ)っていた。

文字ではない。光の粒。陽光の中に浮かぶ埃(ほこり)のように、無数の名前が空気の中をゆっくり流れている。凍っていない。溶けてもいない。ただ、浮いている。重力から離れた名前たちが、風にも逆らわず、ただそこにある。

足元にも、名前があった。

土の中に。草の根の隙間に。地表のすぐ下で、まだ浮かび上がる前の名前たちが静かに横たわっていた。泥(どろ)に沈んだまま目を閉じているような気配。井戸(いど)の底に溜まった水のように、ただそこに在(あ)る。観測されることを待っているのではない。呼ばれることを求めてもいない。名前というものが生まれた最初の場所に、ただ還(かえ)って眠っている。

まだ見ぬ三つ目の井戸の気配も、この幻視の土の下にあった。人が名前をつける前から、名前の種子(たね)のようなものが土に混じっていたのだと、今なら分かる。観測が始まる前の世界。管理される前の名前。何者にも数えられず、何者にも凍らされず、ただ土の温度と同じ温度で在り続けた原初の記録。

解放されたのだと、こよいは直感で理解した。名前が自由になった世界。井戸(いど)も凍結も観測者(かんそくしゃ)もない、その先の世界。

自分の手を見た。皺(しわ)が増えている。指の関節が太く、甲に薄い傷痕(きずあと)がいくつも走っていた。爪の形は同じだが、何年も歩き続けた手だった。日に焼け、風に荒らされ、それでも物を掴(つか)み続けてきた手。

腰に巾着(きんちゃく)がある。布の色が褪(あ)せ、元の藍色(あいいろ)が灰色に近づいている。紐(ひも)は何度も結び直した痕(あと)があり、一箇所は別の紐(ひも)で繋ぎ替えてあった。それでもまだ形を保っている。まだ持っている。まだ、運んでいる。

こよいは巾着(きんちゃく)に触れた。神々の気配がある。だが若いときほど熱くはなかった。穏やかで、静かで、長い旅の終わりに近い温もり。

遠くに人影が二つ見えた。

片方は大きい。あさひだ。背中に背負っているのは——剣ではなかった。刀身が途中で折れ、針金で繋ぎ直されている。鞘(さや)から覗(のぞ)く刃の線が、途中で不自然に曲がっていた。折れた剣を捨てずに直して、まだ使っている。

もう片方は久遠(くおん)。目録(もくろく)を脇に抱え、片手で額を押さえている。義眼(ぎがん)があった場所に蒼光(そうこう)はなかった。黒い眼帯が、左の眼窩(がんか)を覆っている。布の端が風に揺れて、その下には何もないのだと分かった。

焼き切れたのだ、とこよいは思った。蒼光(そうこう)を使い続けた果てに。すべてを見尽くして、義眼(ぎがん)が燃え尽きた。

二人ともこちらを見ていた。表情は読めない。遠すぎる。だが立っている。背筋が伸びている。生きている。

空の名前が風に流された。光の粒が散らばり、草の先端に触れて消える。また別の粒が地面から昇り、空に加わる。終わらない循環。名前が生まれ、浮かび、降り、また昇る。

美しかった。こよいの胸が締まるほどに。

だが足元を見れば、地面に亀裂(きれつ)があった。野原の下に走る、黒い線。草の根が亀裂(きれつ)を跨(また)いで伸び、どうにか大地を繋ぎ止めている。けれど亀裂(きれつ)は深く、底が見えなかった。

観測者(かんそくしゃ)がいなくなった世界の、構造の傷。名前を管理していた仕組みが消えたあとの、支えを失った大地。何百年もかけて作られた檻(おり)を壊せば、檻(おり)が支えていたものも崩れる。

亀裂(きれつ)の縁に膝をつき、覗(のぞ)き込んだ。暗い底に、泥に半ば埋もれた名前の粒が見えた。空に昇れなかった名前。土に還ったまま、再び浮かぶ力を持たなかった名前たち。光を失い、ただの砂粒のように地層に挟まれている。それでも消えてはいなかった。土と同じ温度で微(かす)かに脈打ちながら、名前であることだけを静かに続けていた。

名前は自由だった。世界は壊れていた。そして土の底には、どちらにも属さない名前たちが、ただ在った。すべてが同時に、ここにあった。

こよいは息を吸った。草と土と、遠い雨の匂い。まだ降っていない雨。空には雲がないのに、空気が水の気配を含んでいる。指先に付いた泥の湿り気が乾かない。土の中の名前に触れた手が、まだその記憶を残している。誰のものでもない名前の、ただ在るという感覚だけが、指の腹にじんわりと温かい。

視界がぶれた。

白い光が縮み、名前の粒が消え、色が戻った。足の下に砂利(じゃり)の感触が戻る。草の匂いが消え、乾いた街道の埃(ほこり)の匂いに変わった。

街道の真ん中に立っている。右にあさひ、左に久遠(くおん)。二人とも若い。あさひの剣は折れていない。久遠(くおん)の義眼(ぎがん)は蒼く光っている。今の、この時間の二人がここにいる。

「こよい」

久遠(くおん)の声。低く、鋭い。

「止まるな。歩け」

こよいは瞬きを繰り返した。視界に光の粒の残像(ざんぞう)がある。草の先端に触れて消えた名前の光。すぐに消えた。

「……見た」

「何を」

「未来。かもしれないもの」

声が震えた。美しかったのか、怖かったのか、自分でも分からなかった。両方だった。

「名前が全部、空に浮いてた。自由になってた。光の粒みたいに、どこにも縛られずに」

こよいは言葉を探した。巾着(きんちゃく)を握る手が汗ばんでいる。

「でも、世界がひび割れてた。地面に大きな亀裂(きれつ)が走ってて。久遠(くおん)くんの義眼(ぎがん)が消えてて、あさひの剣が折れてて。ぼくはまだ巾着(きんちゃく)を持ってた。すごく古い、色の褪(あ)せた巾着(きんちゃく)を」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細めた。蒼光(そうこう)が薄く明滅する。何かを計算している眼だった。幻視の内容を評価し、可能性の重みを測っている。

「予知ではない。共鳴の余波だろう。可能性のひとつだ。約束じゃない。……欠けた和音が見せた、欠けたままの未来だ。三つ目の律動が満ちたとき、同じ幻視がどう変わるか。それが本当の答えになる」

あさひが鼻を鳴らした。腕を組み、折れていない剣の鞘(さや)を肘(ひじ)で叩いた。

「折れたのは剣だけか」

「うん。あさひは立ってた。二人とも立ってた」

「なら上等だ」

三人は歩き出した。

空に名前はない。風は乾いている。街道は平坦で、先に何があるのか見えない。巾着(きんちゃく)は静かに腰で揺れている。共鳴の余韻(よいん)はもう消えていた。

こよいの舌の上に、まだ降っていない雨の味が残っていた。土の底の、名前の温度も。

おたまも、こよいの足元を離れずに進んだ。

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