第206話 観測者の亡霊
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第206話 観測者の亡霊

第7章 灯の距離

影の中心は、刃では抜けられなかった。  立ち尽くす三人の背後——灰の帯の縁を縫う細い線路の上を、汽笛とともに霧列車(きりれっしゃ)が滑り込んできた。乗るべき者の前に現れる列車に飛び乗り、灰の帯をひとつ、くぐった。そして帯は、一本ではなかった。  二度目の影の中心を抜けた。

窓の外に色が戻る過程を、こよいは目を開けたまま見ていた。  灰色が端から剥(は)がれ、下の色が露出していく。まるで古い壁紙を剥(は)がすように、灰色の層の下に元の世界が残っている。

「知ってたのか」

あさひが訊(き)いた。

「何を」

「灰色は、上から塗られてるだけだって」

こよいは答えなかった。知っていたのではない。見えただけだった。一度目は灰色しか見えなかった。二度目は、灰色の下に色があることに気づいた。同じ場所を通っても、見えるものが変わる。変わったのは場所ではなく、こよいの眼のほうだった。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を広げていた。頁(ページ)の状態が悪くなっていた。文字の輪郭(りんかく)が前よりさらに滲(にじ)み、蒼光(そうこう)を当てても完全には浮かび上がらない箇所が増えている。

「写しが劣化している」

久遠(くおん)の声に苛立ちが混じった。

「影の中心を通過するたびに、目録(もくろく)の情報が灰色に侵される。一度目よりも二度目のほうが侵食が深い」

「直せないの」

「写しだ。本体じゃない。写しには、自己修復の能力がない」

こよいは久遠(くおん)の手元を見た。目録(もくろく)の頁(ページ)の角が、灰色に変色している。前回はなかった変化だった。

「灰が食ってるんだ……影を通るたびに」

久遠(くおん)は頁(ページ)を閉じず、灰色に侵された角を指で押さえた。蒼光(そうこう)を当てると、侵食の境目が蛍(ほたる)のように明滅した。生きた文字と死んだ文字の境界線だった。

「しおりの帳面に写した分は無事だ。目録(もくろく)が先に死んでも、道は残る」

それだけ言って、残った頁(ページ)に蒼光(そうこう)を注いだ。額に汗が浮いていた。

列車の窓に、停車場(ていしゃじょう)の灯(ともしび)が映った。

星降町(ほしふりまち)だった。海図の町(かいずのまち)へ渡る便は、星降町で乗り継ぐしかない。行灯(あんどん)の火がひとつ、霧(きり)の底に浮いている。前に来たときよりも灯(ひ)が低い。霧(きり)が厚くなったのではない。灯(ひ)そのものが沈んでいた。

あさひが立ち上がった。

「行くぞ」

列車が止まった。扉が開き、霧(きり)と冷気が車内に流れ込んだ。こよいは巾着(きんちゃく)を胸に押し当てた。神々の脈動は穏やかだったが、布地がわずかに灰色を帯びていた。影の中心を通るたびに、布にも灰(はい)が染みている。  掌(てのひら)に意識を集めると、脈動の中に細い差異があった。ひとつではない。霜里(しもざと)の井戸(いど)で刻まれた硬い拍。星降町(ほしふりまち)の井戸(いど)で返されたやわらかな波。二つの律動が、同じ巾着(きんちゃく)の中でまだ別々に打っている。そしてその隙間で、まだ知らない三つ目を待つような、小さな空白が脈打っていた。

三人が停車場(ていしゃじょう)に降りた。足元の石畳(いしだたみ)が湿っている。前回と同じ場所のはずだったが、空気の質が変わっていた。水気ではない。もっと重い、沈殿したものの気配。呼吸をすると、肺の底に何かが溜(た)まるような圧があった。

霧(きり)の奥に、視線を感じた。

こよいは足を止めた。

「……誰か、いる」

声にした途端、視線の重さが増した。霧(きり)の中を見つめ返しているのは、人ではなかった。人だったものでもない。形がない。だが密度がある。空気の一角だけが異様に重く、光を吸い込んで灰色に凝(こご)っている。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。灰色に侵食された頁(ページ)をめくり、かろうじて読める行に蒼光(そうこう)を当てる。

「観測者(かんそくしゃ)の亡霊(ぼうれい)。この停車場(ていしゃじょう)の記録に、そう書かれている」

あさひの右手が鞘(さや)に触れた。

「亡霊(ぼうれい)ってのは、死んだ奴の残りだろう」

「違う」

久遠(くおん)は頁(ページ)を指で押さえたまま言った。

「人の亡霊(ぼうれい)じゃない。観測という行為の亡霊(ぼうれい)だ。記録を凍らせ、名前を漂白(ひょうはく)した。その作業そのものが、作業者を食い尽くした後に残った残響」

「体系が、自分の使い手を喰(く)った」

「ああ。完成した体系に、もう操り手は要らない。要らなくなった操り手の痕跡(こんせき)が、あの霧(きり)の中を漂(ただよ)っている」

こよいは巾着(きんちゃく)を握りしめた。布越しに、神々の温度が下がっている。冷たいのではない。温度が吸われているような感覚だった。  二つの脈がそれぞれ鈍くなっていた。霜里(しもざと)の硬い拍が鈍(にぶ)り、星降町(ほしふりまち)の波が浅くなる。亡霊(ぼうれい)の気配が、律動を等しく蝕(むしば)んでいる。

だが脈は止まらない。弱く、確かに打っている。二つとも。

「神々が冷えてる。でも、動いてる」

こよいは自分の声に耳を傾けた。二つの脈が弱まっても、消えない。むしろ弱まることで、互いの波が近づいていた。強いときには気づかなかった。二つの振動が、衰えるほどに間隔が揃(そろ)い始めている。同じ巾着(きんちゃく)の中で長く揺られるうちに、波が互いを知ったのかもしれない。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。

「亡霊(ぼうれい)は攻撃しない。近くにいるだけで情報を腐らせる。目を向ければ向けるほど、こちらの記録が劣化する」

「見るな、ってことか」

「直視を避けろ。足元を見て歩け」

あさひが鞘(さや)を握ったまま前に出た。剣を抜かない。亡霊(ぼうれい)に刃は届かない。だが身体を前に置くことで、後ろの二人の視界を塞(ふさ)ぐ。背中が広い。その一枚の背が、霧(きり)の向こうの密度から二人を遮(さえぎ)っていた。

三人は停車場(ていしゃじょう)の石畳(いしだたみ)を踏んで歩き始めた。

霧(きり)の中を、灰色の粒が降っていた。雪のようだが冷たくない。質量もない。触れた瞬間に消え、触れた場所の色だけがわずかに薄くなる。あさひの肩に積もった粒が、外套(がいとう)の紺色を一段淡くしていた。

こよいは足元だけを見て歩いた。石畳(いしだたみ)の継ぎ目を数えた。七つ、八つ、九つ。数える行為が視線を縛り、霧(きり)の奥へ目を向けずにすむ。灰色の粒が肩に触れるたびに、巾着(きんちゃく)の脈が一拍だけ遅れる。

それでも止まらない。二つの脈は、灰に触れても消えなかった。

三人の足音だけが、霧(きり)の底で小さく響いていた。足音が三つ、石畳(いしだたみ)を叩く。その間隔が、巾着(きんちゃく)の中の脈と重なる瞬間があった。ほんの一瞬——三人の歩幅と、神々の脈動が、ひとつの和音のように揃(そろ)った。  こよいの胸の奥が、低く震えた。布越しの巾着(きんちゃく)が、一瞬だけ温かくなった。すぐに消えた。だがこよいの掌(てのひら)は、その温度を覚えていた。あの空白の拍が埋まったとき、この和音がどんな音になるのか——それを確かめたいと、初めて思った。

おたまは尾を立て、次の一歩を静かに待っていた。

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