第198話 あさひの幻影
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第198話 あさひの幻影

第7章 灯の距離

霧列車(きりれっしゃ)が速度を落とした。  車輪の軋(きし)みが床板を這(は)い、こよいの足裏まで届く。窓の外に、灰色のホームが霧の底から浮かび上がった。石造りの柱が並んでいる。柱の表面に苔(こけ)はなく、乾いた埃(ほこり)だけが何年分も積もっていた。ホームの屋根は半ば崩れ、鉄骨が骨のように剥(む)き出しになっている。

誰もいないはずだった。

列車が止まる。扉が開き、冷たい空気が車内へ流れ込む。砂利(じゃり)と鉄錆(てつさび)の匂いがした。こよいは思わず襟元(えりもと)を押さえた。  ホームの端に、人影がひとつ。

「……誰かいる」

あさひが立ち上がった。剣の柄(つか)に手をかけたまま、扉の前で足を止める。目を細めている。  人影は小さかった。子どもだ。十かそこらの男の子が、ホームの縁(ふち)に立って線路の先を眺めている。薄い着物を着て、裸足だった。足の指が砂利(じゃり)を掴(つか)んでいる。風が吹いているのに、着物の裾(すそ)が揺れなかった。

こよいは息を呑(の)んだ。  その子どもの立ち方——足の開き、肩の角度、首のわずかな傾げ方。見覚えがあった。毎日見ている姿勢だった。あさひと同じだ。重心の置き方まで同じだった。左足にわずかに体重を寄せ、右肩を半寸だけ落とす。剣を持つ側の腕を軽くしておく構え。子どもの手に剣はない。けれど体が覚えている。握ったことのないものを握るための隙間が、小さな右手の指に残っていた。

こよいの胸の奥が痛んだ。あの姿勢を、この子は誰に教わったのだろう。教わったのではないのかもしれない。骨と筋(すじ)に刻まれた記録が、名前より先に残っただけなのかもしれない。

「あさひ……あれ」

声が届いていないようだった。あさひはホームに降り、一歩、また一歩と近づいていく。靴底が砂利(じゃり)を踏む音だけが、静まり返った空気に落ちた。歩き方が変わっていた。いつもの大股(おおまた)ではない。足を運ぶたびに短く止まる。見慣れない慎重さだった。  こよいは扉の枠(わく)を握った。久遠(くおん)が隣で目録(もくろく)を閉じる気配がした。

子どもが振り向いた。  顔があった。目があった。けれどそこには何も映っていない。瞳の奥が空洞(くうどう)で、光を吸い込むだけの穴のようだった。顔の造りはあさひに似ていなかった。似ていないのに、首を回す角度だけが同じだった。顎(あご)を引いて、眉(まゆ)の高さで相手を見据える。あさひの目つきだった。  口元が動いたが、声は出なかった。唇の形だけが何かを言おうとして、途中で止まった。声帯のない口が、音を探している。

あさひの足が止まる。  五歩の距離。手を伸ばせば届く。

子どもは口を閉じた。ただ、あさひを見た。空洞(くうどう)の目で、まっすぐに。  見て——そのまま踵(かかと)を返し、ホームの奥へ歩き出した。  同じ歩幅、同じ速度。何度も何度も繰り返されてきた動作のように、淀(よど)みがない。裸足が砂利(じゃり)を踏んでいるのに、足音が聞こえなかった。振り向く直前、肩が一瞬だけ揺れた。あさひが戦場(いくさば)で背後の気配を断つときと同じ動き。その癖(くせ)まで、記録は保存していた。

「待て」

あさひの声は掠(かす)れていた。手を伸ばす。指先が子どもの肩に届く寸前、輪郭(りんかく)がほどけた。肩から崩れた。砂(すな)粒になって散る。足元から順に崩れ、腕が消え、胴が消え、最後に空洞(くうどう)の目だけが一瞬宙に残り、それも散った。

ホームの砂利(じゃり)の上に、薄い粉が積もっただけだった。裸足の足跡(あしあと)もない。最初からそこには誰もいなかったかのように、砂利(じゃり)が平らに均(なら)されている。

風が吹いた。粉は舞い上がり、霧に溶けた。何も残らない。

あさひは伸ばした手を下ろさなかった。指が開いたまま、空を掴(つか)んでいる。しばらくそのまま立ち、やがてゆっくりと拳を握り、体の横に戻した。振り向かない。肩の筋が浮いていた。  立ち姿が、さっきの子どもと重なった。足の開き。肩の落とし方。左足に寄せた重心。大人の体と子どもの体、大きさは違う。けれど骨格が描く線は同じだった。年月が肉をつけ、筋を太くし、傷跡を刻んでも、芯の形は変わらなかった。

こよいは扉の枠(わく)に手をかけたまま、動けずにいた。あさひの背中が見える。肩が上下していない。呼吸を止めているのだと気づいた。

——あさひにも、子どもの頃があったのだ。

当たり前のことだった。けれどこよいは初めて、その当たり前の重さに触れた気がした。この場所を通ったことがある。記録が残るほど強く、繰り返し再生されるほど深く、この駅を通り過ぎたことがある。裸足で。ひとりで。声を出せずに。  あの姿勢で。今のあさひとまったく同じ重心で、まだ何も持たない手を握って。

「残留記録だ」

久遠(くおん)の声が背後から聞こえた。低く、平らに抑えた声。

「この区域は言葉じゃなく、動作の軌跡(きせき)を保存する。歩き方、視線の角度、立ち姿。反復再生されたものが、たまたま人の形を結んだだけだ。……名前は残らない。姿勢だけが残る」

説明は正確だった。けれど久遠(くおん)がわざと淡白に言ったのだと、こよいには分かった。あさひの耳に届いている。だから、感情を載せなかった。事実だけを渡した。

あさひがホームから列車に戻ってきた。何も言わない。席に座り、剣を膝(ひざ)の上に置いた。座ったときの姿勢が、ほんのわずかに違った。左足の位置が数寸ずれている。子どもの立ち方に引きずられたのか、それとも意識して変えたのか。こよいには判別がつかなかった。  柄(つか)を握る右手の指が白かった。関節が浮き出るほど力が入っている。左手は膝(ひざ)の上で拳を作り、微かに震えていた。

おたまが、音もなくあさひの膝に飛び乗った。  剣と拳の間に丸くなり、震える左手に背中を押し当てる。あさひは何も言わなかった。追い払いもしなかった。しばらくして、拳がゆっくりとほどけ、猫の背にそっと置かれた。

こよいは何か声をかけようとして、やめた。言葉にできることが何もなかった。代わりに自分の席に座り直し、背筋を伸ばした。隣にいることだけを、姿勢で示した。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を開き、蒼光(そうこう)を落として何かを書き留めていた。義眼(ぎがん)の光が揺れない。いつも通りの久遠(くおん)だった。それがたぶん、久遠(くおん)なりの気遣いだった。

扉が閉まる。列車が動き出す。車輪が軌道(きどう)を噛み、振動が座席に戻ってくる。

あさひは窓の外を見なかった。ホームが霧に呑(の)まれていく。崩れた屋根も、積もった埃(ほこり)も、砂利(じゃり)の上の粉も、空洞(くうどう)の目も、もう何処(どこ)にもない。  けれど姿勢は消えない。こよいは思った。あの立ち方を、あさひの体はまだ覚えている。記録が散っても、軌跡が消えても、骨が継いだものだけは残る。駅に残された幻と、隣に座る人間と、同じ線でつながっている。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸元で握った。中で月の神が、かすかに冷たかった。

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