第192話 陽炎の町
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第192話 陽炎の町

第7章 灯の距離

丘を越えると、下に町があった。

建物の輪郭りんかくが揺れている。屋根の線が伸びたり縮んだりして、壁の色がゆらりとにじむ。陽炎かげろうだった。地面から立ち昇る熱気が空気をゆがめ、町全体を水面の反射のように揺らしている。道らしきものが何本か走り、家屋が通りの両側に並んでいるのが見える。小さな町だが、確かに人の営みの形をしていた。

「人は」

こよいが目を凝らした。

いた。通りを歩く影がある。何人も。荷を担ぐ者、立ち話をする者、子どもを連れた女。動いている。暮らしている。

だが、音がない。

あれだけの人が動いているのに、足音も声も聞こえない。風が丘を撫で、こよいの髪を揺らす音だけが耳にある。まるで硝子ガラスの向こうに広がる景色を見ているような、薄い隔たりがあった。

「降りるぞ」

あさひが先に斜面を下りた。枯草かれくさを踏む足音だけが響く。こよいと久遠くおんが続く。丘を下るにつれて、町の揺らぎが大きくなった。近づいているのではなく、町が揺れ始めたように感じた。

近づくにつれ、空気の温度が変わった。乾いた熱が足元から立ち上り、靴底を通して足裏に届く。日に焼けた石の匂いがする。それに混じって、もう一つ。甘く、かすかに焦げたような匂い。線香せんこうの残り香に似ているが、もっと淡く、もっと寂しい匂いだった。

「記録が蒸発する匂いだ」

久遠くおんが小声で言った。

「……あの砂嵐すなあらしと同じ」

すなでは粒に溶けた。ここでは熱で気化している。この匂いは、名前が空気に散る直前に出る」

通りに入った。足を踏み出すと、石畳いしだたみの感触はある。硬く、熱い。だが石の継ぎ目に目を落とすと、線が微かに震えて定まらない。

建物は近くで見ると、さらに曖昧あいまいだった。壁に窓があるように見えるのに、手を伸ばすと指が空を掴む。窓の形をした熱の揺らぎがあるだけで、実体がない。看板のようなものが軒先のきさきに掛かっていたが、文字は読めない。熱にあぶられたすみのように、線が滲んで崩れている。

こよいは通りの真ん中で立ち止まった。

目の前を、女が横切った。かごを腕に抱え、少し前屈まえかがみに歩いている。着物のすそが揺れ、草履ぞうりが石畳を踏む動作まで見える。だが石畳に音はなく、女の身体は半分透けて、向こう側の壁が薄く見えた。

こよいは手を伸ばした。

指先が女の肩に触れようとした瞬間、温かい空気が指を包んだ。それだけだった。女の肩はなく、指は何も掴めず、温もりだけが手のひらに残って、すぐに散った。生きている人の温度ではない。日向ひなたに置いた布のような、借り物の熱だった。

「触れない」

「当然だ。あれは記録の残像だ」

久遠くおん義眼ぎがんで通りを見回している。蒼光そうこうが瞳の奥で揺れ、見えないものを読んでいる。

「定着しなかった記録が、熱で繰り返し再生されている。昼の陽が強いほど鮮明になり、夜には消える。毎日同じ動作を繰り返す。意志はない」

こよいは手を下ろし、女の背中を見送った。女は通りの角を曲がり、陽炎かげろうの中に溶けた。しばらくすると、同じ角から同じ女が現れ、同じ方向へ歩いていく。同じ籠を抱え、同じように前屈みで、同じ角に消える。籠の中身は見えない。何を運んでいたのかも、もう誰にもわからない。

同じ一日を、永遠に。

あさひは通りの端に立ち、腕を組んだまま陽炎かげろうの人々を見ていた。男が二人、向かい合って口を動かしている。笑っているように見える。口の形が大きく開き、肩が揺れ、片方が手を叩く仕草しぐさをする。声は出ない。手を打つ音もない。笑い声のない笑顔が、繰り返される。

「……気色悪いな」

あさひの声は低かったが、嫌悪けんおではなかった。やりきれなさが、語尾に重く残った。

こよいの足元を、何かが横切った。

小さな影。子どもだ。

五つか六つの男の子が、両手を広げて走っている。鳥の真似まねだろうか。腕を上下に振りながら、口を大きく開けて何かを叫んでいる。声は聞こえない。だが全身で笑っている。裸足の足が石畳を蹴り、膝小僧が泥で汚れている。日に焼けた頬が丸くふくらんでいた。

こよいの横をすり抜けた。

温かい風だけが、頬を撫でた。子どもの体温ではない。陽炎かげろうの熱だ。だが一瞬、こよいの胸の奥で何かがきしんだ。この子の名前を呼んだ人がいたはずだ。朝、起こすときに。夕暮れ、呼び戻すときに。

子どもの残像は、通りの先で足を止めた。  おたまが、そこに座っていた。  意志はない、と久遠くおんは言った。毎日同じ動作を繰り返すだけだと。けれど子どもは確かに立ち止まり、猫のほうへ顔を向けて、聞こえない声で何かを言った。おたまは尾を一度だけ振った。それだけで、子どもは満足したように、また走り出した。  久遠くおん義眼ぎがんが、猫と残像を交互に見た。何も言わなかった。説明のつかないものを、黙って数える顔だった。

巾着きんちゃくが脈打った。一度だけ、強く。

神々が反応している。子どもの残像の中に、名前の痕跡こんせきを感じ取ったのかもしれない。蒸発しかけの、最後のひとしずく。こよいは巾着きんちゃくに手を置き、てのひらで温もりを受け止めた。

「この子たち、名前があったんだよね」

誰に言うでもなく、こよいはつぶやいた。

久遠くおん義眼ぎがんの出力を上げた。蒼光そうこうが、走り去る子どもの残像を追う。

「あった。だが記録として定着する前に、蒸発した。観測者かんそくしゃが凍結も回収もしなかった記録だ。取るに足らないと判断されたんだろう」

「取るに足らない?」

観測者かんそくしゃにとっての話だ」

久遠くおん義眼ぎがんの出力を落とした。蒼光そうこうが一瞬だけ強く瞬き、すぐに落ち着いた。感情を見せない目だった。だが言葉の終わりに、普段にはない硬さがこもっていた。

あさひが背を向け、通りの奥へ歩き出した。

「長居するな。陽炎かげろうに慣れると、自分の輪郭りんかくが怪しくなる」

振り返らずに言った。だがあさひの歩調はいつもより速い。この場所に、長くいたくないのだろう。

こよいはうなずき、歩き出した。陽炎かげろうの人々の間を抜ける。すれ違うたびに温もりが頬や腕を撫で、すぐに消える。触れられない温度。残らない体温。誰かの名前だったものが、熱と一緒にこよいの肌をかすめていく。

通りの出口が見えた。陽炎かげろうが薄くなり、建物の輪郭りんかくが溶けて、ただの熱の揺らぎに戻っていく。甘い焦げた匂いが、まだ鼻の奥に残っている。

振り返ると、町はまだそこにあった。陽炎かげろうの向こうで、透明な人々が声のない暮らしを繰り返している。あの子どもも、まだ走っているのだろう。両手を広げて、聞こえない声で叫びながら。

日が傾けば消える。  明日の朝、また同じ場所に現れる。  誰にも見られず、誰にも呼ばれず。

こよいは前を向いた。巾着きんちゃくを強く握ると、神々の温もりがてのひらの中でかすかに震えていた。

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