第183話 仮面の下の真実
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第183話 仮面の下の真実

第6章 影の計量

心臓空洞(くうどう)を出た回廊(かいろう)で、仮面(かめん)の男が待っていた。

回廊(かいろう)は狭く、天井が低い。壁の赤黒い主脈(しゅみゃく)が両側で脈打ち、薄い光を投げている。光は赤く、壁の石組みに影を落としていた。石の継ぎ目が主脈(しゅみゃく)の光で浮かび上がり、回廊(かいろう)全体が血管の内側にいるように見える。その光の中に、人影が一つ。壁に背を預け、腕を組んで立っていた。  身なりは観測者(かんそくしゃ)の制服だ。灰色の上衣(うわぎ)に、黒い帯。だが腕章(わんしょう)がない。観測者(かんそくしゃ)であることを示す所属章が、外されている。外した跡(あと)が布地に残り、色が変わっている部分が四角く浮いていた。杖(つえ)も鍵束(かぎたば)も持たず、両手は空だ。武装解除した姿で、三人を待っていた。

「久遠(くおん)」

男が名前を呼んだ。声は低く、掠(かす)れていた。長い間、誰とも話していなかった人間の声だ。喉の奥が乾いて、音が割れている。

久遠(くおん)の表情が硬くなった。足が止まり、義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が無意識に灯る。防衛反応だ。蒼光(そうこう)が回廊(かいろう)の壁に散り、男の影を二重に映した。

「……まだ生きていたのか、燈真(とうま)」

声に驚きと警戒が同量混じっていた。久遠(くおん)がこういう声を出すのは珍しい。普段は感情を分析の下に置く人間だ。それが崩れている。

あさひが小声で問う。剣の柄(つか)に手を置いたまま、視線は男から外さない。指が柄(つか)を握り込む力が、関節を白くしていた。

「知り合いか」

「元班員だ。観測記録の班にいた。俺が義眼(ぎがん)を得る前からの」

男は仮面(かめん)へ手をかけた。仮面(かめん)は白い木で、表面に墨で紋が描かれている。観測者(かんそくしゃ)の正式な仮面(かめん)ではない。自分で作ったものだろう。木の表面に鑿(のみ)の跡(あと)が残り、紋の線は不揃いだ。紐(ひも)の結び方が粗く、片方が少しずれていた。

「まずはこれを外す。疑うなら、外した顔を見てから疑え」

仮面(かめん)の下に現れた顔は、疲れ切っていた。頬がこけ、目の下に深い隈(くま)がある。唇は乾き、髭(ひげ)が伸びている。何日も食事を取っていない人間の顔だ。頬骨が浮き、首筋の腱が目立つ。  それでも、目だけはまっすぐ久遠(くおん)を見る。濁りのない目だった。嘘(うそ)をつく時に人は目を逸(そ)らす。この男は逸らしていない。

「わたしは消去運用に反対した。記録班の中で、剥離主体を維持すべきだと主張した。だから外された。班ごと解散させられた」

久遠(くおん)は沈黙したまま、男の足元を確認した。蒼光(そうこう)を足元に向け、影の動きを読む。擬装(ぎそう)された人間は影が不自然に遅れる。操られた人間は影が本体と分離する。燈真(とうま)の影は自然に動いていた。影の端が壁の主脈(しゅみゃく)の光に溶け、脈動と同じリズムで揺れている。本人だ。

こよいが訊(き)く。声を抑えて、回廊(かいろう)の奥へ響かないように。

「どうしてここに? ここは心臓の奥だよ。番人を通らなきゃ来られない」

男は懐から紙束(かみたば)を取り出した。紙は折り畳まれ、角が擦り切れている。何度も広げては畳んだ跡(あと)だ。紙の端が薄くなり、折り目に沿って繊維が毛羽立っていた。

「番人は通してくれた。名前を預けた。わたしの通り名を一つ。その代わりに、ここで待つ許可を得た」

こよいは思い出した。心臓の空洞(くうどう)の床にあった、幅の違う二種類の足跡。もう一組は、この男のものだったのだ。

名前を一つ失って、ここにいる。その事実が、男の覚悟を物語っていた。番人の規則は厳格だ。名前を預けるということは、自分の一部を差し出すということだ。戻ってこない可能性がある部分を。

紙束(かみたば)を差し出す。手が微(かす)かに震えていた。

「最終抵抗の配置図だ。観測者(かんそくしゃ)本隊はここで一度、全区画の同時再固定(こてい)を試みる。端末(たんまつ)六基を使った一斉ロック。成功すれば、名前の循環が完全に停止する」

あさひが警戒を崩さない。紙束(かみたば)を受け取らず、男の手元を見ている。手首の動き、指の緊張、紙の持ち方。武器を隠している可能性を、身体全体で探っている。

「罠(わな)の可能性は」

久遠(くおん)が即座に答える。

「高い。だが情報価値も高い。配置図が本物なら、先回りできる。偽物なら、偽物の意図から敵の戦術が読める。どちらにしても、無価値ではない」

男は肩を落とした。力が抜けた姿は、観測者(かんそくしゃ)の訓練を受けた人間には見えなかった。ただの疲れた男だ。肩が前に落ち、背中が丸まっている。

「疑ってくれて構わない。むしろ疑わないほうが怖い。だが時間がない。再固定(こてい)は明日の夜明けだ。わたしの班はもう消えた。三人は処分され、二人は逃げ、残ったのはわたしだけだ。止められなかった後悔(こうかい)だけが残った」

声が震えていた。最後の一文で、震えが大きくなった。回廊(かいろう)の壁が震えた声を反射し、小さく繰り返した。

こよいはしおりの帳面を開き、燈真(とうま)が差し出した配置図の内容を照合した。帳面の余白に、しおりが残した注記がある。中陵(ちゅうりょう)の制御系統に関する断片的な情報だ。配置図の端末(たんまつ)の位置が、注記と一致する部分がある。完全一致ではないが、矛盾もない。

「……少なくとも全部は嘘(うそ)じゃない。帳面の注記と重なる部分がある」

久遠(くおん)が男を見据える。蒼光(そうこう)を消し、自分の声だけで話す。道具を使わず、人間として向き合う姿勢だ。

「仮面(かめん)の下の真実は、言葉だけじゃ証明できない。行動で示すしかない」

男は頷(うなず)いた。

「分かっている。だから一緒に来る。監視下でいい。裏切りがあれば、その場で斬れ。逃げない」

あさひが短く結論を出す。判断は速い。迷っている時間はなかった。

「縛って同行。裏切ればその場で制圧。だが不必要に痛めつけない」

男は抵抗せず手を差し出した。あさひが細い紐(ひも)で手首を結ぶ。きつすぎず、緩すぎない拘束(こうそく)だ。走れるが、武器は使えない程度。紐(ひも)の結び目を確認し、あさひは頷(うなず)いた。

四人になって先へ進む。回廊(かいろう)の主脈(しゅみゃく)が脈打ち、足元に赤い光が走る。四人分の足音が、三人だけの時とは違うリズムで石壁に跳ねた。  道中、男はぽつりと言った。声が回廊(かいろう)に反響し、小さく消えていく。

「仮面(かめん)は便利だった。責任の顔を隠せるから。何をしても、仮面(かめん)の下の自分は安全だと思えた」

久遠(くおん)は前を向いたまま返した。

「外したなら、ここからは顔で責任を取れ。隠す場所はもうない」

仮面(かめん)の下にある真実は、清廉(せいれん)でも英雄でもない。  失敗と後悔(こうかい)を抱えた、遅すぎる告白だった。

それでも遅い告白が、最後の抵抗を止める鍵になるなら、拾う価値はある。こよいは帳面に一行書いた。

『燈真(とうま)合流。監視下同行。情報照合中。還す者の手(て)——未発見。照合継続』

四人分の足音が、回廊(かいろう)の奥へ消えていった。

おたまは尾を立て、次の一歩を静かに待っていた。

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