心臓空洞を出た回廊で、仮面の男が待っていた。
回廊は狭く、天井が低い。壁の赤黒い主脈が両側で脈打ち、薄い光を投げている。光は赤く、壁の石組みに影を落としていた。石の継ぎ目が主脈の光で浮かび上がり、回廊全体が血管の内側にいるように見える。その光の中に、人影が一つ。壁に背を預け、腕を組んで立っていた。 身なりは観測者の制服だ。灰色の上衣に、黒い帯。だが腕章がない。観測者であることを示す所属章が、外されている。外した跡が布地に残り、色が変わっている部分が四角く浮いていた。杖も鍵束も持たず、両手は空だ。武装解除した姿で、三人を待っていた。
「久遠」
男が名前を呼んだ。声は低く、掠れていた。長い間、誰とも話していなかった人間の声だ。喉の奥が乾いて、音が割れている。
久遠の表情が硬くなった。足が止まり、義眼の蒼光が無意識に灯る。防衛反応だ。蒼光が回廊の壁に散り、男の影を二重に映した。
「……まだ生きていたのか、燈真」
声に驚きと警戒が同量混じっていた。久遠がこういう声を出すのは珍しい。普段は感情を分析の下に置く人間だ。それが崩れている。
あさひが小声で問う。剣の柄に手を置いたまま、視線は男から外さない。指が柄を握り込む力が、関節を白くしていた。
「知り合いか」
「元班員だ。観測記録の班にいた。俺が義眼を得る前からの」
男は仮面へ手をかけた。仮面は白い木で、表面に墨で紋が描かれている。観測者の正式な仮面ではない。自分で作ったものだろう。木の表面に鑿の跡が残り、紋の線は不揃いだ。紐の結び方が粗く、片方が少しずれていた。
「まずはこれを外す。疑うなら、外した顔を見てから疑え」
仮面の下に現れた顔は、疲れ切っていた。頬がこけ、目の下に深い隈がある。唇は乾き、髭が伸びている。何日も食事を取っていない人間の顔だ。頬骨が浮き、首筋の腱が目立つ。 それでも、目だけはまっすぐ久遠を見る。濁りのない目だった。嘘をつく時に人は目を逸らす。この男は逸らしていない。
「わたしは消去運用に反対した。記録班の中で、剥離主体を維持すべきだと主張した。だから外された。班ごと解散させられた」
久遠は沈黙したまま、男の足元を確認した。蒼光を足元に向け、影の動きを読む。擬装された人間は影が不自然に遅れる。操られた人間は影が本体と分離する。燈真の影は自然に動いていた。影の端が壁の主脈の光に溶け、脈動と同じリズムで揺れている。本人だ。
こよいが訊く。声を抑えて、回廊の奥へ響かないように。
「どうしてここに? ここは心臓の奥だよ。番人を通らなきゃ来られない」
男は懐から紙束を取り出した。紙は折り畳まれ、角が擦り切れている。何度も広げては畳んだ跡だ。紙の端が薄くなり、折り目に沿って繊維が毛羽立っていた。
「番人は通してくれた。名前を預けた。わたしの通り名を一つ。その代わりに、ここで待つ許可を得た」
こよいは思い出した。心臓の空洞の床にあった、幅の違う二種類の足跡。もう一組は、この男のものだったのだ。
名前を一つ失って、ここにいる。その事実が、男の覚悟を物語っていた。番人の規則は厳格だ。名前を預けるということは、自分の一部を差し出すということだ。戻ってこない可能性がある部分を。
紙束を差し出す。手が微かに震えていた。
「最終抵抗の配置図だ。観測者本隊はここで一度、全区画の同時再固定を試みる。端末六基を使った一斉ロック。成功すれば、名前の循環が完全に停止する」
あさひが警戒を崩さない。紙束を受け取らず、男の手元を見ている。手首の動き、指の緊張、紙の持ち方。武器を隠している可能性を、身体全体で探っている。
「罠の可能性は」
久遠が即座に答える。
「高い。だが情報価値も高い。配置図が本物なら、先回りできる。偽物なら、偽物の意図から敵の戦術が読める。どちらにしても、無価値ではない」
男は肩を落とした。力が抜けた姿は、観測者の訓練を受けた人間には見えなかった。ただの疲れた男だ。肩が前に落ち、背中が丸まっている。
「疑ってくれて構わない。むしろ疑わないほうが怖い。だが時間がない。再固定は明日の夜明けだ。わたしの班はもう消えた。三人は処分され、二人は逃げ、残ったのはわたしだけだ。止められなかった後悔だけが残った」
声が震えていた。最後の一文で、震えが大きくなった。回廊の壁が震えた声を反射し、小さく繰り返した。
こよいはしおりの帳面を開き、燈真が差し出した配置図の内容を照合した。帳面の余白に、しおりが残した注記がある。中陵の制御系統に関する断片的な情報だ。配置図の端末の位置が、注記と一致する部分がある。完全一致ではないが、矛盾もない。
「……少なくとも全部は嘘じゃない。帳面の注記と重なる部分がある」
久遠が男を見据える。蒼光を消し、自分の声だけで話す。道具を使わず、人間として向き合う姿勢だ。
「仮面の下の真実は、言葉だけじゃ証明できない。行動で示すしかない」
男は頷いた。
「分かっている。だから一緒に来る。監視下でいい。裏切りがあれば、その場で斬れ。逃げない」
あさひが短く結論を出す。判断は速い。迷っている時間はなかった。
「縛って同行。裏切ればその場で制圧。だが不必要に痛めつけない」
男は抵抗せず手を差し出した。あさひが細い紐で手首を結ぶ。きつすぎず、緩すぎない拘束だ。走れるが、武器は使えない程度。紐の結び目を確認し、あさひは頷いた。
四人になって先へ進む。回廊の主脈が脈打ち、足元に赤い光が走る。四人分の足音が、三人だけの時とは違うリズムで石壁に跳ねた。 道中、男はぽつりと言った。声が回廊に反響し、小さく消えていく。
「仮面は便利だった。責任の顔を隠せるから。何をしても、仮面の下の自分は安全だと思えた」
久遠は前を向いたまま返した。
「外したなら、ここからは顔で責任を取れ。隠す場所はもうない」
仮面の下にある真実は、清廉でも英雄でもない。 失敗と後悔を抱えた、遅すぎる告白だった。
それでも遅い告白が、最後の抵抗を止める鍵になるなら、拾う価値はある。こよいは帳面に一行書いた。
『燈真合流。監視下同行。情報照合中。還す者の手——未発見。照合継続』
四人分の足音が、回廊の奥へ消えていった。
おたまは尾を立て、次の一歩を静かに待っていた。
