心臓空洞の奥には、細い工房が隠れていた。
入口は結晶体の影に紛れていて、正面からでは見えない。横から回り込んで初めて、壁に切り込まれた狭い通路が現れる。通路は人一人がやっと通れる幅で、天井が低い。あさひは腰をかがめ、こよいと久遠は頭を下げて進んだ。
通路を抜けると、壁一面に刃が掛けられた部屋が広がった。大小さまざまな刃が、木の掛け台に等間隔で並んでいる。どの刃も先端が異様に白い。鉄の色ではない。骨のような、紙のような、記録の色を帯びた白さだ。名前を削るために研ぎ上げられた色。 部屋の空気は冷たく、金属の匂いがする。壁の石は乾いているが、刃の表面にだけ薄い水滴が付いていた。結晶体の脈動が壁越しに伝わり、刃を微かに震わせている。
工房の中央に、一本だけ台座に固定された刀がある。他の刃より一回り大きく、刀身が緩やかに反っている。銘はない。鍛冶師の名も、製造年も刻まれていない。側面に刻字だけ。
『名前を削る刃』
こよいは背筋が寒くなった。文字を読んだ瞬間、巾着の神々が急に冷えた。四柱が警戒している。この刃は、名前そのものに作用する道具だ。
「これで、名を漂白してたんだ」
声が掠れた。旅の途中で見てきた白い痕跡——砂に残った白い線、岩面の漂白された文字、名前を失った人の肌に浮いた白い斑——その全てが、この刃から始まっていた。
久遠が台座を調べる。蒼光で刀身と台座の接合部を照らし、刻字の下に隠れた古い文字を読んだ。
「兵器じゃない。元は救難用の剥離刃だ。過剰付着した偽名を切り離すための道具。名前が二重三重に重なって身動きが取れなくなった人間から、余分な層だけを剥がす」
本来の用途は治療だった。名前の過剰付着は、この世界では珍しくない病だ。他人の名前が自分の名前に張りつき、混濁して動けなくなる。その時に必要な最小限の剥離を行うための、繊細な道具。
あさひが呆れた顔で刃を見上げる。
「道具そのものは中立、使い方で地獄ってやつか」
台座には操作溝が三つ刻まれていた。溝の形が違う。 一つ目は浅く丸い溝——剥離。 二つ目は細く深い溝——圧縮。 三つ目は太く角張った溝——消去。
久遠が溝の磨耗を調べ、眉をひそめた。
「剥離と圧縮は磨耗している。長年使われた跡だ。だが消去溝だけが新しく深い。最近削り直された。刃全体の運用が、途中から消去に偏った証拠だ」
久遠が目録に記しながら言う。
「観測者が消去溝を主運用にした。剥離も圧縮もせず、最初から消去する。それが効率的だと判断したんだろう。治療を省略して、削除だけを行う」
こよいはしおりの帳面を開いた。余白に短い走り書きがある。しおりの筆跡ではない。もっと古い字だ。帳面に転記される前から、この言葉は語り継がれてきたのだろう。
『刃は悪くない。設定が悪い。』
あさひは自分の欠けた剣を見た。刃が短くなり、師匠の銘が中途半端に残っている。道具は使い手を選ばない。使い手が道具の意味を決める。
「設定を戻せるか」
久遠は頷く。
「戻せる。操作溝の優先順を書き換えれば、刃は元の剥離主体に戻る。ただし、ここでやると防衛式が反応する可能性が高い」
言い終わらないうちに、工房の床が赤く光った。石の目地に沿って赤い線が走り、部屋全体を格子状に区切る。 侵入検知が作動したのだ。台座に触れたことが、防衛系統に伝わった。
壁の刃が一斉に浮いた。掛け台から離れ、空中で静止する。白い先端がゆっくりと三人のほうを向いた。自律防衛。工房を守るために設定された、無人の防御機構だ。
あさひが前へ出る。欠けた剣を抜き、構えた。
「久遠、設定を戻せ。こっちは時間を稼ぐ」
こよいは巾着を開き、雨の神の温もりを床に向けた。赤い光の上に温もりを重ねると、光の伝播速度が落ちる。防衛刃の追尾精度が鈍くなった。完全には止められないが、動きが遅くなる。
あさひは訓練の成果を出した。斬らずに、峰打ちで浮いた刃の軸だけを叩く。刃が回転する軸を正確に見極め、根元を一撃で止める。一本、二本、三本。峰が刃の腹を打つたびに、甲高い金属音が工房に響いた。
久遠は台座に取りつき、目録の頁を台座の表面に重ねた。蒼光で操作溝の配線を読み取り、優先順の書き換えに入る。
消去を一番下へ。剥離を一番上へ。圧縮は補助。
指先が震えていた。書き換えの途中で間違えれば、刃が暴走する。慎重に、だが速く。背後であさひが刃を打つ音が、時計のように時間を刻んでいる。
最後の一手。管理鍵の認証欄へ、久遠は新しい署名を刻んだ。 『返還運用』。
台座が青く光った。赤い格子が消え、浮いていた刃が一斉に力を失って床に落ちる。金属が石に当たる音が重なり、そのあとに静寂が来た。
あさひが肩で息をしながら笑う。額に汗が光り、欠けた剣を鞘に戻す手が震えている。
「間に合ったな。あと十秒遅かったら、残りの刃に囲まれてた」
久遠は刀身を布で丁寧に包み、台座へ戻した。刃を持ち出す気はない。
「持ち出さない。ここに残して運用だけ直す。道具をなくしても問題は解決しない。使い方を変えることが解決だ」
こよいは工房の入口に木札を掛けた。しおりの帳面から書き写した一文を、大きな字で。
『削る前に、剥がせ』
四文字。だがこの四文字が、この工房の運用を根本から変える。消すことが当たり前だった場所に、剥がすという選択肢を戻す。
名前を削る刃は、なくすべきものじゃない。 誤った設定から、元の設定へ戻すべきものだった。
削る刃を剥がす刃に戻す——原初の術式が求める還す者の手とは、設定を元に戻す手かもしれない。 三人は工房を離れ、心臓空洞へ戻る。背後で台座の灯が、赤から穏やかな青へ変わっていた。剥離の色だ。
振り返ると、おたまの三毛の背がすぐそばにあった。
