第182話 名前を削る刃
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第182話 名前を削る刃

第6章 影の計量

心臓空洞くうどうの奥には、細い工房こうぼうが隠れていた。

入口は結晶体の影に紛れていて、正面からでは見えない。横から回り込んで初めて、壁に切り込まれた狭い通路が現れる。通路は人一人がやっと通れる幅で、天井が低い。あさひは腰をかがめ、こよいと久遠くおんは頭を下げて進んだ。

通路を抜けると、壁一面に刃が掛けられた部屋が広がった。大小さまざまな刃が、木の掛け台に等間隔で並んでいる。どの刃も先端が異様に白い。鉄の色ではない。骨のような、紙のような、記録の色を帯びた白さだ。名前を削るために研ぎ上げられた色。  部屋の空気は冷たく、金属の匂いがする。壁の石は乾いているが、刃の表面にだけ薄い水滴が付いていた。結晶体の脈動が壁越しに伝わり、刃をかすかに震わせている。

工房こうぼうの中央に、一本だけ台座に固定こていされた刀がある。他の刃より一回り大きく、刀身が緩やかにっている。めいはない。鍛冶師の名も、製造年も刻まれていない。側面に刻字だけ。

『名前を削る刃』

こよいは背筋が寒くなった。文字を読んだ瞬間、巾着きんちゃくの神々が急に冷えた。四柱よはしらが警戒している。この刃は、名前そのものに作用する道具だ。

「これで、名を漂白してたんだ」

声がかすれた。旅の途中で見てきた白い痕跡こんせき——砂に残った白い線、岩面の漂白された文字、名前を失った人の肌に浮いた白いまだら——その全てが、この刃から始まっていた。

久遠くおんが台座を調べる。蒼光そうこうで刀身と台座の接合部を照らし、刻字の下に隠れた古い文字を読んだ。

「兵器じゃない。元は救難用の剥離刃はくりじんだ。過剰付着した偽名を切り離すための道具。名前が二重三重に重なって身動きが取れなくなった人間から、余分な層だけをがす」

本来の用途は治療だった。名前の過剰付着は、この世界では珍しくない病だ。他人の名前が自分の名前に張りつき、混濁して動けなくなる。その時に必要な最小限の剥離を行うための、繊細せんさいな道具。

あさひがあきれた顔で刃を見上げる。

「道具そのものは中立、使い方で地獄ってやつか」

台座には操作溝そうさみぞが三つ刻まれていた。みぞの形が違う。  一つ目は浅く丸いみぞ——剥離。  二つ目は細く深いみぞ——圧縮。  三つ目は太く角張ったみぞ——消去。

久遠くおんみぞ磨耗まもうを調べ、眉をひそめた。

「剥離と圧縮は磨耗まもうしている。長年使われたあとだ。だが消去溝だけが新しく深い。最近削り直された。刃全体の運用が、途中から消去にかたよった証拠だ」

久遠くおん目録もくろくに記しながら言う。

観測者かんそくしゃが消去溝を主運用にした。剥離も圧縮もせず、最初から消去する。それが効率的だと判断したんだろう。治療を省略して、削除だけを行う」

こよいはしおりの帳面を開いた。余白に短い走り書きがある。しおりの筆跡ひっせきではない。もっと古い字だ。帳面に転記される前から、この言葉は語り継がれてきたのだろう。

『刃は悪くない。設定が悪い。』

あさひは自分の欠けた剣を見た。刃が短くなり、師匠の銘が中途半端に残っている。道具は使い手を選ばない。使い手が道具の意味を決める。

「設定を戻せるか」

久遠くおんうなずく。

「戻せる。操作溝そうさみぞの優先順を書き換えれば、刃は元の剥離主体に戻る。ただし、ここでやると防衛式が反応する可能性が高い」

言い終わらないうちに、工房こうぼうの床が赤く光った。石の目地に沿って赤い線が走り、部屋全体を格子こうし状に区切る。  侵入検知が作動したのだ。台座に触れたことが、防衛系統に伝わった。

壁の刃が一斉に浮いた。掛け台から離れ、空中で静止する。白い先端がゆっくりと三人のほうを向いた。自律防衛じりつぼうえい工房こうぼうを守るために設定された、無人の防御機構だ。

あさひが前へ出る。欠けた剣を抜き、構えた。

久遠くおん、設定を戻せ。こっちは時間を稼ぐ」

こよいは巾着きんちゃくを開き、雨の神の温もりを床に向けた。赤い光の上に温もりを重ねると、光の伝播でんぱ速度が落ちる。防衛刃の追尾精度が鈍くなった。完全には止められないが、動きが遅くなる。

あさひは訓練の成果を出した。斬らずに、峰打みねうちで浮いた刃の軸だけをたたく。刃が回転する軸を正確に見極め、根元を一撃で止める。一本、二本、三本。みねが刃の腹を打つたびに、甲高い金属音が工房こうぼうに響いた。

久遠くおんは台座に取りつき、目録もくろくページを台座の表面に重ねた。蒼光そうこう操作溝そうさみぞの配線を読み取り、優先順の書き換えに入る。

消去を一番下へ。剥離を一番上へ。圧縮は補助。

指先が震えていた。書き換えの途中で間違えれば、刃が暴走する。慎重に、だが速く。背後であさひが刃を打つ音が、時計のように時間を刻んでいる。

最後の一手。管理鍵の認証欄へ、久遠くおんは新しい署名を刻んだ。  『返還運用』。

台座が青く光った。赤い格子こうしが消え、浮いていた刃が一斉に力を失って床に落ちる。金属が石に当たる音が重なり、そのあとに静寂が来た。

あさひが肩で息をしながら笑う。額に汗が光り、欠けた剣をさやに戻す手が震えている。

「間に合ったな。あと十秒遅かったら、残りの刃に囲まれてた」

久遠くおんは刀身を布で丁寧に包み、台座へ戻した。刃を持ち出す気はない。

「持ち出さない。ここに残して運用だけ直す。道具をなくしても問題は解決しない。使い方を変えることが解決だ」

こよいは工房こうぼうの入口に木札を掛けた。しおりの帳面から書き写した一文を、大きな字で。

『削る前に、がせ』

四文字。だがこの四文字が、この工房こうぼうの運用を根本から変える。消すことが当たり前だった場所に、剥がすという選択肢を戻す。

名前を削る刃は、なくすべきものじゃない。  誤った設定から、元の設定へ戻すべきものだった。

削る刃を剥がす刃に戻す——原初げんしょ術式じゅつしきが求める還す者のとは、設定を元に戻す手かもしれない。  三人は工房こうぼうを離れ、心臓空洞くうどうへ戻る。背後で台座の灯が、赤から穏やかな青へ変わっていた。剥離の色だ。

振り返ると、おたまの三毛の背がすぐそばにあった。

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