第161話 符号の灯
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第161話 符号の灯

第6章 影の計量

制御室(せいぎょしつ)の裏手に、地下へ降りる石段があった。久遠(くおん)が再配線の途中で見つけた、系統図(けいとうず)に載らない通路だ。  降りた先の石の回廊(かいろう)の奥に、机がひとつだけ置かれていた。

回廊(かいろう)の天井は低く、三人の足音が石壁に跳ねて前方から返ってくる。自分たちの足音を追いかけているような錯覚がした。壁面には古い配管が這い、銅緑色の錆(さび)が筋を引いている。配管の継ぎ目から、かつて蒸気が漏れていた跡(あと)が天井に黒い染みを作っていた。空気は乾いているのに、指先だけが湿った。この奥に何かが動いている気配が、湿度に混じっている。

机の上には黒い箱。  蓋(ふた)も鍵穴(かぎあな)もない。  表面の小窓だけが、夜みたいに暗い。箱の角は丸く磨耗(まもう)し、長い年月をここで過ごしてきたことを示していた。だが埃(ほこり)は積もっていない。誰かが定期的に拭(ぬぐ)っている。箱の表面は滑らかで、指の跡(あと)が薄く残っていた。最後に触れた人間の指紋が、油脂の痕として残っている。

久遠(くおん)が足を止めた。

「……観測者(かんそくしゃ)の補助制御卓(せいぎょたく)だ」

声が硬い。この種の装置を、久遠(くおん)は知っている。かつて属していた組織の道具だ。

あさひが肩を鳴らす。

「壊して進むか?」

「壊す前に読む。壊したあとでは戻せない情報がある」

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に寄せ、机へ近づいた。  箱に触れた指先が、軽く痺(しび)れる。冷たいのに、電熱みたいな残り方をする。痺れは指先から手首へ遡(さかのぼ)り、肘(ひじ)の手前で消えた。機械の体温、とこよいは思った。生きてはいないが、死んでもいない温度。巾着(きんちゃく)の中で、風の神がわずかに震えた。箱の存在を感知している。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を小窓へ落とすと、闇の中に白い文字が浮いた。

`AYAMARI FUGO: KIBOU`

こよいは思わず読み上げる。

「希望、がエラー?」

久遠(くおん)は乾いた笑いを漏らした。笑いというより、喉の奥で空気が漏れた音だった。

「観測者(かんそくしゃ)の計器にとって、希望は誤差(ごさ)だ。予測からはみ出した挙動(きょどう)だからな」

こよいはその文字を見つめた。白い光で浮かぶ`KIBOU`の五文字が、小窓の中でゆっくり明滅している。明滅の間隔は心拍に近い。この箱にも、鼓動のようなものがある。誰かがこの箱を設計した時、希望をエラーに分類する判断があった。その判断を下した人間にも、かつて希望と呼べる何かがあったはずだ。それを計器の外に置いた瞬間から、この箱は希望を読めなくなった。

あさひが剣の柄(つか)を軽く叩(たた)く。金属の硬い音が回廊(かいろう)に響いた。

「なら誤差(ごさ)で押し切るしかないだろ」

久遠(くおん)は箱の側面を探り、薄い差込口を見つけた。  指の腹で撫(な)でると、かすかな凹(くぼ)みがある。通常の手では気づかない程度の隙間だった。隙間の幅は紙一枚分。  そこへ目録(もくろく)の切れ端を差し込む。

反応はすぐ来た。  小窓の文字が変わる。

`NYUURYOKU FUMEI`

`ICHIJI JOUHO WO KYOKA SURU?`

こよいが久遠(くおん)を見る。

「罠(わな)の可能性は?」

「高い。でも通らないと次の座標(ざひょう)が取れない」

巾着(きんちゃく)の中で神々が脈を速めた。警告の拍ではない。もっと複雑な、判断を急(せ)かすでもなく引き留めるでもない揺れだった。こよいは布越しに掌(てのひら)を当て、脈を聞く。四柱(よはしら)の振動がそれぞれ微妙に異なるリズムで脈打っている。統一された判断ではなく、四つの神がそれぞれ別の反応を返している。神々もまた、この箱の前で迷っているように感じた。

あさひは短く言った。

「やるなら今だ。迷ってる時間のほうが危ない」

久遠(くおん)が頷(うなず)き、義眼(ぎがん)の光量を上げる。  蒼光(そうこう)が小窓の縁を走り、古い防壁の式を剥(は)がしていく。一層、二層。防壁は薄いが数が多く、久遠(くおん)のこめかみに汗が浮いた。義眼(ぎがん)の明滅が速まり、蒼光(そうこう)が回廊(かいろう)の壁にまで散る。壁の配管が蒼光(そうこう)を反射し、回廊(かいろう)全体が青白く光った。

こよいは巾着(きんちゃく)を開き、神々の脈を合わせた。  一定の拍で、久遠(くおん)の処理を支える。温度が低く安定した波を送り、義眼(ぎがん)の過熱を抑える。あさひは背後の回廊(かいろう)に耳を澄ませ、追手の気配がないことを確かめ続けた。三人の呼吸だけが、石壁の間で小さく響く。

小窓に最終確認が出る。

`KIBOU KENSHUTSU`

`BUNRUI:`

`[ ] SHIPPAI`

`[ ] ZATSUON`

`[ ] MIKAIKETSU`

久遠(くおん)は迷わず三つ目を選んだ。蒼光(そうこう)で三つ目の枠を照らし、選択を確定する。

「解決済みにした瞬間、固定(こてい)される。未解決のまま運ぶ」

こよいはその判断に、胸の奥がざわめいた。未解決を選ぶことは、答えを出さない弱さではない。答えを固定(こてい)しない強さだ。観測者(かんそくしゃ)が全てを分類し、管理し、固定(こてい)することで世界を壊してきたのなら、分類を拒むことが最初の抵抗になる。

小窓が一度暗転し、次に細い地図線を表示した。  中陵(ちゅうりょう)の北縁(ほくえん)へ抜ける隠し路線。正規の路線図には載っていない線だ。線は青白く震え、数秒ごとに位置がわずかにずれる。未確定の道。それでも、消えてはいない。

あさひが口笛を吹く。低く短い口笛だ。

「使えるじゃないか、希望エラー」

久遠(くおん)は箱の電源を落とし、目録(もくろく)へ座標(ざひょう)を写した。手が速い。蒼光(そうこう)で座標(ざひょう)の数字を読み取りながら、同時に目録(もくろく)に書き写す。写し終えると同時に小窓が完全に暗くなり、箱は再びただの黒い塊に戻った。小窓に自分の顔が映るだけの、暗い表面。

「使えるのは一回きりだろう。観測者(かんそくしゃ)側も異常として記録したはずだ」

こよいは最後に小窓を見た。  文字はもう出ていない。  ただ、暗い画面の奥で、自分の顔がかすかに映る。頬が少し痩(や)せた。旅の始まりよりも、目の色が深くなっている気がした。小窓の中の自分は、旅の前の自分とは別の顔をしている。

希望がエラーなら、エラーのまま進む。  その方が、誰にも先回りされない。  術式(じゅつしき)の第三条件もまた、未解決(みかいけつ)のまま運ぶべきものなのかもしれない。

三人は机を離れ、回廊(かいろう)の先へ歩き出した。足音が再び石壁に跳ね返り、前方から返ってくる。行きと同じ音だが、帰りの足音は少しだけ軽い。  背後で黒い箱が、遅れて一度だけ小さく鳴った。  誰に向けた音かは分からない。警告か、許可か、あるいは別れの合図か。  こよいは振り返らなかった。答えを決めないまま進むことを、さっき三人で選んだばかりだった。

振り返ると、おたまの三毛の背がすぐそばにあった。

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