制御室の裏手に、地下へ降りる石段があった。久遠が再配線の途中で見つけた、系統図に載らない通路だ。 降りた先の石の回廊の奥に、机がひとつだけ置かれていた。
回廊の天井は低く、三人の足音が石壁に跳ねて前方から返ってくる。自分たちの足音を追いかけているような錯覚がした。壁面には古い配管が這い、銅緑色の錆が筋を引いている。配管の継ぎ目から、かつて蒸気が漏れていた跡が天井に黒い染みを作っていた。空気は乾いているのに、指先だけが湿った。この奥に何かが動いている気配が、湿度に混じっている。
机の上には黒い箱。 蓋も鍵穴もない。 表面の小窓だけが、夜みたいに暗い。箱の角は丸く磨耗し、長い年月をここで過ごしてきたことを示していた。だが埃は積もっていない。誰かが定期的に拭っている。箱の表面は滑らかで、指の跡が薄く残っていた。最後に触れた人間の指紋が、油脂の痕として残っている。
久遠が足を止めた。
「……観測者の補助制御卓だ」
声が硬い。この種の装置を、久遠は知っている。かつて属していた組織の道具だ。
あさひが肩を鳴らす。
「壊して進むか?」
「壊す前に読む。壊したあとでは戻せない情報がある」
こよいは巾着を胸に寄せ、机へ近づいた。 箱に触れた指先が、軽く痺れる。冷たいのに、電熱みたいな残り方をする。痺れは指先から手首へ遡り、肘の手前で消えた。機械の体温、とこよいは思った。生きてはいないが、死んでもいない温度。巾着の中で、風の神がわずかに震えた。箱の存在を感知している。
久遠が義眼の蒼光を小窓へ落とすと、闇の中に白い文字が浮いた。
`AYAMARI FUGO: KIBOU`
こよいは思わず読み上げる。
「希望、がエラー?」
久遠は乾いた笑いを漏らした。笑いというより、喉の奥で空気が漏れた音だった。
「観測者の計器にとって、希望は誤差だ。予測からはみ出した挙動だからな」
こよいはその文字を見つめた。白い光で浮かぶ`KIBOU`の五文字が、小窓の中でゆっくり明滅している。明滅の間隔は心拍に近い。この箱にも、鼓動のようなものがある。誰かがこの箱を設計した時、希望をエラーに分類する判断があった。その判断を下した人間にも、かつて希望と呼べる何かがあったはずだ。それを計器の外に置いた瞬間から、この箱は希望を読めなくなった。
あさひが剣の柄を軽く叩く。金属の硬い音が回廊に響いた。
「なら誤差で押し切るしかないだろ」
久遠は箱の側面を探り、薄い差込口を見つけた。 指の腹で撫でると、かすかな凹みがある。通常の手では気づかない程度の隙間だった。隙間の幅は紙一枚分。 そこへ目録の切れ端を差し込む。
反応はすぐ来た。 小窓の文字が変わる。
`NYUURYOKU FUMEI`
`ICHIJI JOUHO WO KYOKA SURU?`
こよいが久遠を見る。
「罠の可能性は?」
「高い。でも通らないと次の座標が取れない」
巾着の中で神々が脈を速めた。警告の拍ではない。もっと複雑な、判断を急かすでもなく引き留めるでもない揺れだった。こよいは布越しに掌を当て、脈を聞く。四柱の振動がそれぞれ微妙に異なるリズムで脈打っている。統一された判断ではなく、四つの神がそれぞれ別の反応を返している。神々もまた、この箱の前で迷っているように感じた。
あさひは短く言った。
「やるなら今だ。迷ってる時間のほうが危ない」
久遠が頷き、義眼の光量を上げる。 蒼光が小窓の縁を走り、古い防壁の式を剥がしていく。一層、二層。防壁は薄いが数が多く、久遠のこめかみに汗が浮いた。義眼の明滅が速まり、蒼光が回廊の壁にまで散る。壁の配管が蒼光を反射し、回廊全体が青白く光った。
こよいは巾着を開き、神々の脈を合わせた。 一定の拍で、久遠の処理を支える。温度が低く安定した波を送り、義眼の過熱を抑える。あさひは背後の回廊に耳を澄ませ、追手の気配がないことを確かめ続けた。三人の呼吸だけが、石壁の間で小さく響く。
小窓に最終確認が出る。
`KIBOU KENSHUTSU`
`BUNRUI:`
`[ ] SHIPPAI`
`[ ] ZATSUON`
`[ ] MIKAIKETSU`
久遠は迷わず三つ目を選んだ。蒼光で三つ目の枠を照らし、選択を確定する。
「解決済みにした瞬間、固定される。未解決のまま運ぶ」
こよいはその判断に、胸の奥がざわめいた。未解決を選ぶことは、答えを出さない弱さではない。答えを固定しない強さだ。観測者が全てを分類し、管理し、固定することで世界を壊してきたのなら、分類を拒むことが最初の抵抗になる。
小窓が一度暗転し、次に細い地図線を表示した。 中陵の北縁へ抜ける隠し路線。正規の路線図には載っていない線だ。線は青白く震え、数秒ごとに位置がわずかにずれる。未確定の道。それでも、消えてはいない。
あさひが口笛を吹く。低く短い口笛だ。
「使えるじゃないか、希望エラー」
久遠は箱の電源を落とし、目録へ座標を写した。手が速い。蒼光で座標の数字を読み取りながら、同時に目録に書き写す。写し終えると同時に小窓が完全に暗くなり、箱は再びただの黒い塊に戻った。小窓に自分の顔が映るだけの、暗い表面。
「使えるのは一回きりだろう。観測者側も異常として記録したはずだ」
こよいは最後に小窓を見た。 文字はもう出ていない。 ただ、暗い画面の奥で、自分の顔がかすかに映る。頬が少し痩せた。旅の始まりよりも、目の色が深くなっている気がした。小窓の中の自分は、旅の前の自分とは別の顔をしている。
希望がエラーなら、エラーのまま進む。 その方が、誰にも先回りされない。 術式の第三条件もまた、未解決のまま運ぶべきものなのかもしれない。
三人は机を離れ、回廊の先へ歩き出した。足音が再び石壁に跳ね返り、前方から返ってくる。行きと同じ音だが、帰りの足音は少しだけ軽い。 背後で黒い箱が、遅れて一度だけ小さく鳴った。 誰に向けた音かは分からない。警告か、許可か、あるいは別れの合図か。 こよいは振り返らなかった。答えを決めないまま進むことを、さっき三人で選んだばかりだった。
振り返ると、おたまの三毛の背がすぐそばにあった。
