第148話 欠けたままの社
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第148話 欠けたままの社

第5章 名の漂い

次の区画には、社(やしろ)があった。

鳥居(とりい)はある。  参道(さんどう)もある。  だが、どこも途中で終わっている。

石段は十段目で途切れ、賽銭箱(さいせんばこ)は底板がない。  本殿(ほんでん)の屋根には棟木(むなぎ)が一本欠け、鈴の縄は結び目の手前で切れていた。鳥居(とりい)の朱塗りは右の柱だけが鮮やかで、左は下地の白木(しらき)が剥(む)き出しになっている。完成と未完成が一つの場所に同居し、どちらにも属さない不思議な均衡(きんこう)を保っていた。  空気は乾いている。湿度の低い、紙のような匂い。どこかで焚(た)いた線香の残り香(が)が微(かす)かに漂っているが、火元は見えない。足元の砂利は掃き清められた跡があるのに、箒(ほうき)の痕跡は途中で消えていた。

「未完成の社(やしろ)か」

あさひが呟(つぶや)く。剣の柄に手を添えたまま、周囲を見回す。敵の気配はない。それでもあさひの肩は緩まなかった。未完成のものには罠(わな)が仕込みやすい。それを体で知っているからだろう。

久遠(くおん)は参道(さんどう)の石を調べ、目録(もくろく)に印を付けた。膝をつき、指の腹で石の表面をなぞる。外套(がいとう)の裾(すそ)が砂利に触れ、乾いた音を立てた。石の目地には砂ではなく、細かい文字のような筋が刻まれていた。読めない文字だ。だが文字であることだけは分かる。規則的な繰り返しと、句切りの空白がある。

「完成する前に記録だけ固定(こてい)された。作業手順が逆転してる」

こよいは本殿(ほんでん)の前へ進んだ。  拝礼の位置には円形の窪(くぼ)みがあり、中央だけ磨かれている。  誰かが何度も、同じ動きを繰り返した跡(あと)だ。膝をつき、手をつき、頭を下げる。その反復が石を削り、中央に滑らかな光沢を作っていた。こよいはその窪みの縁に触れ、指先に伝わる冷たさと滑らかさの違いを感じ取った。ここに居た誰かの祈りが、石に刻まれている。名前も顔もわからない誰かの。

「ここで、何を作ろうとしたんだろう」

返事の代わりに、風が吹いた。  切れた鈴縄の先が揺れ、鳴らない鈴が揺れる。縄の断面は刃物で切られたのではなく、擦り切れて千切れた跡だった。長い時間をかけて、少しずつ。

音がない。  社(やしろ)というのは本来、鈴の音や柏手(かしわで)や砂利を踏む音で満ちているはずの場所だ。その全てが欠けている沈黙は、静寂ではなく不在だった。

あさひが社殿(しゃでん)の柱を叩(たた)いた。  拳の骨が木に当たる硬い音。内部から乾いた反響が返る。空洞の共鳴。何もない空間が、叩かれたことに律儀に応えている。

「空だな。神体(しんたい)もない」

久遠(くおん)が補足する。目録(もくろく)の頁(ページ)を繰る指が止まった。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が細く絞られ、社殿(しゃでん)の暗がりを覗き込んでいる。

「神体(しんたい)の代わりに、設計図が置かれていたはずだ。観測者(かんそくしゃ)が回収した可能性が高い」

こよいは巾着(きんちゃく)を開き、巾着(きんちゃく)を掌(てのひら)で受けた。月の神の銀光が柔らかく灯(とも)り、温度は穏やかだった。攻撃的な熱さではなく、体温より少し高い程度の温もり。それが掌(てのひら)から石へ移ると、窪(くぼ)みの縁(ふち)に淡い線が浮かぶ。光は石の表面を這うように走り、砂利の隙間にまで染み込んだ。参道(さんどう)の石に刻まれていた文字の筋が、光に反応してわずかに明るくなる。

円ではない。  三重の螺旋(らせん)だ。

こよいは息を呑んだ。螺旋の線は中心から外へ向かうのではなく、外から中心へ収束している。三つの螺旋(らせん)はそれぞれ異なる速度で巻いており、交差する点に小さな結び目のような膨らみがあった。何かを集めるための形ではない。何かを放つための形だ。

「これ、奉納(ほうのう)の印じゃない。起動式だ」

久遠(くおん)の声が早くなる。目録(もくろく)を閉じ、螺旋の線を指で追いながら。

「社(やしろ)を完成させるんじゃない。未完成のまま働かせる装置だ。欠けを維持することで理(ことわり)の逃げ道を作る」

あさひが眉をひそめた。柱から手を離し、参道(さんどう)の外を見やる。風が砂利を鳴らし、鳥居(とりい)の白木(しらき)の柱を撫でて通り過ぎた。

「逃げ道を作るための社(やしろ)、か。祈る場所じゃなく、逃がす場所だな」

こよいは窪(くぼ)みへ神々の温度を落とした。掌(てのひら)から離れた温もりが石に沁(し)みるのを感じる。指先が冷え、爪の根元がじんと痺(しび)れた。  石の色がわずかに変わり、参道(さんどう)の先で消えていた石段が二段だけ延びる。砂利の下から石の角が覗き、十段目で止まっていた階段が十二段になった。

それ以上は伸びない。  こよいは神々を巾着(きんちゃく)に戻し、掌(てのひら)を見つめた。力が足りないのではない。ここがそう設計されているのだ。

「全部は戻せない」

「戻す必要はない」

久遠(くおん)が言う。螺旋の図を目録(もくろく)に写し取りながら、静かに。

「ここは完成しないことに意味がある。未完成のまま、道だけ通せればいい」

あさひが参道(さんどう)の外を警戒しつつ、短く問う。剣の柄に添えた手が、無意識に握りを確かめている。

「道はどこへ」

久遠(くおん)は社殿(しゃでん)の影を指した。目録(もくろく)の頁(ページ)を開き直し、螺旋の図と影の方角を見比べる。  夕刻でもないのに、影が北へ長く伸びている。影の先端は参道(さんどう)を越え、砂利の境界を跨(また)ぎ、まだ見えない遠くへ向かっていた。普通の影ならば日の角度に従うはずだが、この影には光源がない。社殿(しゃでん)自体が影を生んでいる。

「影の先。次の停車場(ていしゃじょう)と繋がってる」

こよいは本殿(ほんでん)に一礼した。  祈りではなく、通行の挨拶として。頭を上げたとき、本殿(ほんでん)の軒(のき)の影から乾いた風が下りてきて、こよいの髪を撫でた。

鳴らない鈴がもう一度揺れ、今度はかすかな金属音がした。  完全な音ではない。鈴の中の舌(ぜつ)が壁にかすっただけの、半端な一音。  それでも、無音よりはずっと確かな返事だった。

三人は影の線に沿って歩き出す。影は足元で薄く揺れ、踏むたびに冷たい感触が靴底を通じて伝わった。砂利の上を歩いているはずなのに、影の上だけは音が吸い込まれるように小さかった。  背後で未完成の社(やしろ)は、欠けたまま静かに立っていた。

欠けを抱えたまま機能する。  前を向いたまま記憶する。それがここへの礼儀だと思った。

社(やしろ)を出る前に、三人は切れた鈴縄を結び直した。  完全な修復ではない。  次に来る人が、ここが機能していると分かる程度の結びだ。あさひが縄の端を揃え、久遠(くおん)が結び方を指示し、こよいが最後の一巻きを締めた。麻の繊維が掌(てのひら)に食い込み、ざらりとした感触が残る。三人の手が順に縄に触れ、それぞれの体温が麻の繊維に移った。

こよいが縄を引くと、鈴はかすれた一音だけ返した。さっきよりほんの少しだけ長い音。結び直した分だけ、縄の張りが戻ったのだ。  足元で、チリン、と小さな音が応えた。おたまの首の鈴だった。欠けた鈴と、生きた鈴。二つの音が一瞬だけ重なり、乾いた境内(けいだい)に消えた。

あさひが笑う。口の端だけの、控えめな笑いだった。

「十分だ。無音よりずっといい」

久遠(くおん)は本殿(ほんでん)の柱に小さな印を書いた。目録(もくろく)から取り出した墨を指先に載せ、木目に沿って一行。

『未完を維持』

「完成させたくなる者が必ず来る。先に注意書きを残しておく」

こよいは印を見て頷(うなず)いた。  墨の字は木目に馴染み、遠目には柱の模様にしか見えない。気づく者だけが気づく。それでいい。  こよいは掌(てのひら)を開いた。神々の温もりが抜けた指先はまだ冷たかったが、完成を急がない温度が、代わりに残っていた。  原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)もまた、未完のまま機能する道があるのだろうか——第三の条件への問いが、胸の奥で静かに巡った。

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