第118話 名の光粒
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第118話 名の光粒

第4章 境の継ぎ目

門を潜った瞬間、空気が変わった。  前回のインクと古紙の匂いに、焦げた匂いが重なっている。書架(しょか)の森は健在だったが、ところどころで棚が傾いていた。  足元の石が割れ、割れ目から粉末になった文字の残骸(ざんがい)が吹き出している。一歩踏むたびに灰色の粉が舞い、こよいの草鞋(わらじ)の底に張りついた。

巾着(きんちゃく)の中で、四柱(よはしら)が一斉に身を固くした。  前回来たときの記憶が、神々の中にも残っているのだろう。雨の神が速く脈打ち、月の神の銀光が警告のように明滅した。風の神は巾着(きんちゃく)の底に身を沈め、硝子(びいどろ)の神が周囲の光を読み取るように微かに揺れている。

天井に亀裂が走り、割れ目から蒼白い光が漏れている。前回は天井すら見えない暗闇(くらやみ)だった。今は壊れかけた場所から光が差し、書架(しょか)の列を不規則に照らしていた。  亀裂の縁から、光の粒が砂のようにこぼれ落ちている。粒は床に触れると消え、消えた場所の石が少しだけ白くなった。経蔵(きょうぞう)の構造そのものが、少しずつ崩れている。

足元に書物が散らばっている。棚から落ちたものだろう。頁(ページ)が開いたまま床に広がり、文字が紙の上で微かに揺れていた。  踏まないように歩いた。書物の表紙に、人の名前のような文字列が浮かんでいる。読めない文字だったが、名前であることだけは分かった。誰かの記録が、床の上に裸で転がっている。それが、こよいの胸を締めつけた。

こよいがその一冊に手を伸ばしかけると、久遠(くおん)が肩を掴(つか)んだ。

「触るな。崩壊中の記録は不安定だ。触れた人間の記憶を巻き込んで消す」

こよいは手を引いた。  書物の頁(ページ)の上で、文字が蠢(うごめ)いている。読めない文字。けれどその形は、名前に見えた。

「……あの文字、全部、名前?」

「この書架(しょか)には、この世から消された記録が収められている。神の名、人の名、土地の名。消されたものが、死にきれずにここに溜まっていたんだ」

こよいは息を呑(の)んだ。  足元に散らばる書物の一つ一つが、消された存在の墓標だった。こよいたちが踏みしめている床の上に、無数の名前が眠っている。  巾着(きんちゃく)の中の神々も、かつてはここに記録されていたのだろうか。

久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が蒼く明滅した。情報の密度が高すぎるのだろう。額に汗が浮いている。

あさひが先頭を歩いていた。  剣の抜き身(ぬきみ)を右手に、行く手を塞ぐ崩れた棚板を蹴り、道を作る。棚板が倒れるたびに、中に収められていた書物が雪崩(なだれ)のように落ち、頁(ページ)が開いて文字が宙に散った。散った文字は光を帯び、蛍のように漂い、やがて消える。  前回は守護者が巡回していた通路が、今は瓦礫(がれき)で半ば埋まっている。

「守護者は?」

「気配は薄い。門が壊れたとき、かなりの数が巻き込まれて消えたらしい」

久遠(くおん)が答えた。だが油断はできない。消え残った守護者がどこに潜んでいるか分からない。

書架(しょか)の間を進むうちに、こよいは奇妙なものを見た。  一冊の書物が、棚の上で勝手に開いた。風はないのに、頁(ページ)がめくれる。そこから黒い粒が飛び出した。

蝶(ちょう)だった。  文字で出来た、小さな蝶(ちょう)。何十匹も頁(ページ)から湧(わ)き出し、天井の亀裂に向かって舞い上がっていく。一匹一匹の翅(はね)に、読めない名前が刻まれている。  蝶(ちょう)は音もなく飛んだ。羽ばたきの代わりに、名前の一文字一文字が微かに光る。その光が蒼白い闇の中に筋を描き、天井の亀裂に吸い込まれていった。  あさひが剣を下ろし、蝶(ちょう)を見上げた。切るものではないと分かったのだろう。鋭い目が、一瞬だけ柔らかくなった。

消された名前が、経蔵(きょうぞう)の崩壊に乗じて逃げようとしている。

こよいは立ち止まり、蝶(ちょう)の群れを見上げた。  黒い翅(はね)が蒼白い光の中を舞い、亀裂の向こうへ消えていく。一匹がこよいの頬をかすめた。翅(はね)の端に、「あ」という一文字だけが残っていた。名前の最初の一音。それだけを抱えて、この蝶は何千年もここに閉じ込められていたのだ。  こよいは追いかけるように手を伸ばした。指先を掠(かす)めた蝶(ちょう)は、一瞬だけ掌(てのひら)に温かい跡を残して、次の瞬間には蒼光に溶けた。

巾着(きんちゃく)の中で、四柱(よはしら)の神々が震えた。  同じものだったのだ。あの蝶(ちょう)たちと、巾着(きんちゃく)の中の神々は。消されかけた名前。行き場を失った記録。違いがあるとすれば、巾着(きんちゃく)の中の神々には、こよいがいるということだけだった。

「……行こう。あの子たちを、あれ以上増やさないために」

こよいは前を向いた。  書架(しょか)の森は奥に行くほど損傷がひどくなっている。棚が完全に倒れた場所もあり、床に書物の山が積み上がっていた。  空気が重い。前回よりも、理(ことわり)の密度が上がっている。呼吸のたびに、胸の奥に冷たい塊が沈んでいく感覚があった。久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が激しく明滅し、額に汗の筋が何本も流れている。こよいの草鞋(わらじ)の底が熱い。歩くたびに割れ目から立ち昇る気熱が、足を通して身体に沁(し)みてくる。  あさひが振り返った。

「久遠、大丈夫か」

「黙って進め。時間がない」

久遠(くおん)は歯を食いしばり、前を向いた。こよいは久遠(くおん)の背中を見た。震えている。それでも足は止めない。理(ことわり)の重圧に耐えながら進む背中を、こよいは後ろから支えるように歩いた。  その山を越え、亀裂を避け、三人は経蔵(きょうぞう)の深部へ進んだ。

やがて、蒼白い光が黄金に変わり始めた。  書架(しょか)の列が途切れ、広い空間が開ける。前方から、記録の重みとは異質の、静かな圧力が押し寄せてくる。  空気の温度が変わった。冷たさの中に、微かな熱が混じっている。生きた記録の熱。まだ消されていない真実が、自らの存在を主張するように発している熱だった。  巾着(きんちゃく)の中で、四柱(よはしら)が身を起こした。雨の神が強く脈打ち、月の神が銀光を鋭く灯(とも)す。前回ここに来たとき、神々は怯(おび)えていた。今も怯(おび)えている。けれどその怯(おび)えの中に、真実を知りたいという意志が混じっていた。

真実の棚は、まだ立っていた。

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