第104話 書架の森
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第104話 書架の森

第4章 境の継ぎ目

列車が止まった。  衝撃ではなかった。  呼吸を最後まで吐ききったときのような、静かな断絶。  車輪の軋(きし)みが一声だけ尾を引き、それきり鋼の獣は黙り込んだ。

車内の蒼白い行灯(あんどん)が大きく揺らめき、消えた。  暗闇(くらやみ)の中に、自分の心臓の音だけが残った。  座席の木が冷え切っている。指先で触れると、木目の凹凸(おうとつ)が異様にくっきりと感じられた。視覚を奪われた分だけ、皮膚の感度が上がっている。こよいは自分の膝(ひざ)の上にある巾着(きんちゃく)の重みを確かめた。四柱(よはしら)の神々の気配は微かだが、消えてはいない。

「……着いた。経蔵(きょうぞう)だ」

久遠(くおん)の声は、闇の底から這い上がるように低かった。  義眼(ぎがん)の蒼い光だけが、車内に細い筋を描いている。その光が三人の顔を順に照らした。こよいの頬、あさひの顎(あご)、そして久遠(くおん)自身の、削(そ)げた横顔。光が触れた場所だけが存在を許されているようだった。  あさひは無言で剣の背負い紐(ひも)を二重に締め直した。  鉄と布が擦れる音が、やけに大きく響く。

重い扉が開いた。  金属の蝶番(ちょうつがい)が悲鳴を上げ、錆(さび)の粉が宙に散った。扉の向こうから押し寄せた圧力に、こよいの前髪が一斉に後ろへ流れた。  車内に溜まっていた空気が、一息に外へと吸い出された。  代わりに流れ込んできたのは、骨の髄まで凍てつく冷気と、古い紙が朽(く)ちていく匂いだった。  インクと黴(かび)と、何千年も動かされなかった石の匂い。

鼻腔(びこう)を焼くように刺し、肺の底に重く沈んだ。  喉(のど)の奥がざらつく。舌の上に薄い苦味が広がり、こよいは思わず袖(そで)で口を押さえた。空気そのものが固形に近い。吸うのではなく、噛(か)み砕くようにして呼吸しなければならなかった。  ホームに足を下ろした瞬間、分厚い塵(ちり)の層が膝(ひざ)まで舞い上がった。  塵(ちり)は灰色ではなかった。  ほどけた墨(すみ)の残骸(ざんがい)だった。

何万年もかけて風化し、粉末となった文字の屍(しかばね)。  一歩ごとに、かつて誰かの名前であったかもしれない粒子が宙に漂い、こよいの頬に触れては崩れていく。

「……触るな。その塵(ちり)にも記録は残っている。素手で吸い込めば、他人の一生分の記憶が脳に流れ込む」

久遠(くおん)は衣の袖(そで)で口元を覆い、義眼(ぎがん)だけを蒼く灯して前方の闇を探った。  左目の奥で、小さな火花が不規則に散っている。  理(ことわり)の密度が、彼の眼球の許容量を超えかけていた。  あさひが二人の前に立った。

何も言わない。  剣の柄(つか)に手を添え、ただ前を向いている。  その背中が広かった。  こよいはあさひの肩甲骨(けんこうこつ)の動きを見ていた。呼吸に合わせて規則正しく上下している。恐れていないのではない。恐れを筋肉の奥に押し込んで、代わりに警戒だけを表面に出している。そういう背中だった。  ホームの先に、門があった。

漆黒。  それ以外の言葉が見つからない。  天を衝(つ)く高さの二本の柱が霧(きり)の中に聳(そび)え、その間に渡された梁(はり)は、光そのものを飲み込む素材で出来ていた。  門の表面を覆っているのは苔(こけ)でも錆(さび)でもなく、圧縮された文字の層だった。

鱗(うろこ)のように重なり合った万の漢字が、風に触れるたびに微かな擦過音(さっかおん)を立てる。  こよいが一歩近づくと、門の文字が反応した。鱗(うろこ)の一枚一枚がわずかに浮き上がり、こよいの輪郭を探るように蠢(うごめ)いている。  久遠(くおん)が低く制止した。

「動くな。門が読み取っている。お前の名前を」

文字の鱗(うろこ)がざわめき、やがて元の位置に収まった。拒絶ではない。だが歓迎でもなかった。ただ通過を黙認しただけの、古い記録の無感情な応答だった。  閉じ込められた記録たちの呻(うめ)きだと、こよいは思った。  巾着(きんちゃく)の中で、神々が身じろぎした。  月の神が銀色の光を細く放ち、風の神が小さな渦(うず)を巻いて警戒を示している。

硝子(びいどろ)の神だけは沈黙したまま、門の向こう側を読み取ろうとしていた。  雨の神がこよいの掌(てのひら)の中で冷たく震えている。水が怯(おび)えるとき、こんなふうに温度を失うのだと知った。

「……怯(おび)えてる」

こよいが呟(つぶや)くと、久遠(くおん)は門を見上げたまま答えた。

「当然だ。ここは墓(はか)だからな。神々にとっての」

久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が門の上部を走査し、蒼光が文字の層の一枚一枚をなぞっていった。読み取れる範囲を超えているのか、左目の奥の火花が一段と激しくなる。彼は小さく舌打ちし、目を逸(そ)らした。  門の隙間から、冷たい風が一筋だけ吹き出していた。  古い紙と石の匂いに混じって、別のものが鼻腔(びこう)をかすめた。  乾ききった涙の匂い。  何千年も前に流された、誰のものとも知れぬ涙の痕跡(こんせき)。

こよいはその匂いに胸を刺され、巾着(きんちゃく)を両手で強く抱え込んだ。  中の神々が互いに寄り添うように震えていた。神々にも恐怖がある。そのことが、こよいの目頭を熱くした。

「行くぞ」

あさひが言った。  短く、一言だけ。  剣の鞘(さや)が石畳(いしだたみ)を叩く音が、ホームに反響した。  三人の足音が重なり、門へと向かう。

塵(ちり)が舞い、靴が沈み、冷気が首筋を這(は)う。  門の下に立ったとき、こよいは自分の吐息が白くならないことに気づいた。  これほど寒いのに、呼吸が見えない。  まるで自分たちの存在が、この場所では認められていないかのようだった。

三人は門を潜(くぐ)った。  門の内側を通り抜ける一瞬、全身の産毛(うぶげ)が逆立った。圧縮された文字の層が皮膚の上を撫(な)でていく感触。何千もの声が同時に耳元で囁(ささや)き、一歩踏み出した途端に沈黙した。  背後で重い音がして、世界が閉じた。  振り返っても、ホームの姿はもう消えていた。  列車も、霧(きり)も、何もない。

壁のような闇だけが、来た道を呑(の)み込んでいた。  退路はない。その事実が腹の底に冷たく沈んだ。だが不思議と、恐怖よりも先に覚悟(かくご)が胸を満たした。隣であさひの剣が鳴り、久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が蒼く灯(とも)っている。独りではないという実感が、こよいの足を前に向かせた。  こよいの足元で、巾着(きんちゃく)が微かに震えていた。  中の神々が、声もなく泣いているような気配がした。  こよいは巾着(きんちゃく)を胸の前で抱え直し、唇だけを動かした。誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。  前方に、蒼白い光を放つ書架の列が、地平の果てまで続いていた。

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