第101話 新しい町の予感
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第101話 新しい町の予感

第4章 境の継ぎ目

町に入ると、足元の感触が変わった。  土から石畳いしだたみへ。  草鞋わらじの底が硬い石を叩くたびに、乾いた音が建物の壁に跳ね返る。  森や街道では聞かなかった音だ。  人の手が敷いた道の音。

通りには露店が並び、煎餅せんべいを焼く匂いと番茶の湯気が風に乗っていた。  荷車にぐるまが行き交い、木の車輪が石畳いしだたみを擦る音が途切れない。  こよいは匂いと音の洪水に目を細め、自分が久しぶりに人の世の只中にいることを感じた。  醤油しょうゆの焦げる匂い、炭火の煙、藍染あいぞめ暖簾のれんが風に膨らむ音。どれもが森では嗅いだことのない、生きた人の営みの匂いだった。  目の前を駆け抜けた子どもの笑い声が、耳の奥にしばらく残った。

巾着きんちゃくの中で、神々が身を縮めている。  雨の神は脈を落とし、月の光は深く沈み、風の息は薄くなった。布越しに伝わる温もりが頼りなく、人の気配が濃い場所では、神々はこうして身を潜めるのだと、こよいは初めて知った。

あさひが鼻を鳴らした。

「鉄の匂いだ。駅が近い」

通りの突き当たりに、黒い煙を吐く木造の駅舎えきしゃが見えた。  屋根の上で赤い旗がゆっくりと揺れ、壁にはすみで書かれた時刻表が貼られている。  文字はかすれかけていたが、「鈴灯すずとも」の駅名だけは新しい墨で書き直されていた。

駅前には旅人が集まっていた。  蒸気の匂いが漂い、石畳いしだたみには油とすすの染みが黒く広がっている。線路の方角から熱気が這い上がり、空気が僅かにゆがんで見えた。  荷を背負った男、子を抱いた女、木箱を積んだ商人。  草鞋わらじの音と荷物の擦れる音が混じり、待合の空気がざわついている。  売り子が声を張り、湯気の立つ団子を差し出していた。

久遠くおんは人混みを抜け、窓口へ向かった。  その背中は人混みの中でも目を引いた。蒼い義眼ぎがんの光が時折ちらつき、すれ違う旅人が無意識に道を空ける。こよいは久遠くおんの後を追いながら、巾着きんちゃくを上着の内側に深く押し込んだ。人の視線が怖かった。中身を知られてはならない。

「切符を三枚」

木の格子の向こうで、駅員の手が動いた。  銅貨が受け皿に落ちる音。  あかい印が押された札が三枚、格子の隙間から滑り出てきた。  札は木の薄板で、行き先が旧い字で刻まれている。  朱の印はまだ湿っていて、こよいの指先に微かに色が移った。  木の札からは松脂まつやにの匂いがした。指で撫でると年輪の筋が浮き上がり、凹凸が爪に引っかかる。

久遠くおんは札を確かめ、一枚をこよいに、一枚をあさひに渡した。

「……経蔵きょうぞう。記録の墓所だ。そこに、目録もくろくがある」

久遠くおんの声は低く、周囲に聞かれぬよう唇だけが動いていた。  こよいは札を握り、木の手触りの中に、これから向かう場所の重さを感じた。

あさひは札を懐にしまい、何も訊かなかった。  ただ剣のつかを一度だけ握り直し、それが答えだった。

待合の柱時計が鳴った。  低い音が一つ。振り子の影が壁に揺れ、その影が通り過ぎるとき、巾着きんちゃくの中で月の光がわずかに反応した。時を刻む音に、月の神は敏感だった。  その音を合図にしたかのように、線路の上に溜まっていたきりが、ゆっくりとうねり始めた。

遠くで汽笛きてきが鳴る。

こよいは立ち上がり、ホームへ出た。  鉄の匂いとすすの匂いが混じった空気が、顔に当たる。  線路はきりの中へ真っ直ぐ伸び、その先は白く塗り潰されて見えない。

汽笛きてきがもう一度。  今度は近い。  きりの奥でともしびが一つ生まれ、それが二つになり、三つになった。  灯は行灯あんどんの火に似ているが、もっと硬く、もっと直線的な光だった。  こよいは息を止めた。光の周りで霧が渦を巻き、水蒸気が細かい粒となって頬に触れる。鉄と水と、かすかな硫黄いおうの匂いが混じっていた。

蒸気の白い柱がきりを割り、鋼の車体が音もなく滑り込んできた。  いや、音はあった。  車輪がレールを踏む重い振動が、ホームの石畳いしだたみを通じて足の裏に伝わってくる。  それは地鳴りに似て、けれど地鳴りよりも正確な、機械の呼吸だった。

巾着きんちゃくの中で、神々が一斉に身じろぎした。  雨の神が短く脈打ち、月の光が一瞬だけ強く灯り、風がきゅっと身を縮めた。  この鉄の獣に対する、本能的な警戒。

列車が止まった。  扉が開き、木の床から乾いた匂いが立ち上る。  車内には蒼白い行灯あんどんの火が灯り、空いた座席の影が長く伸びていた。

駅員が赤い旗を下ろし、切符を確かめる。  あかい印に目を落とし、短くうなずいて通した。  駅員の指は油で黒く汚れ、爪の間にすすが詰まっていた。鉄と共に生きる者の手だった。

あさひが先に乗り込んだ。  久遠くおんが続き、こよいが最後に足をかけた。  木の段を踏む音が、妙に大きく響いた。

こよいはふと振り返った。  ホームの端、きりの境目に、誰かが立っている気がした。  黒い影。  背筋に冷たいものが走った。巾着きんちゃくの中で、硝子びいどろの神が鋭く光り、すぐに消えた。警告だった。  目を凝らしたが、きりが揺れ、影は消えていた。

「……こよい。乗れ」

久遠くおんの声が車内から届いた。  こよいは目を逸らし、車内に入った。  扉が重い音を立てて閉まり、ホームのともしびきりの向こうに沈んだ。

列車が動き出した。  足元から伝わる振動が、ゆっくりと速度を上げていく。  窓の外のきりが流れ始め、鈴灯すずともの町が少しずつ遠ざかった。  露店の灯が一つ、また一つときりに飲まれ、煎餅せんべいと番茶の匂いが記憶の奥に退いていく。人の世の匂いが薄れるにつれて、巾着きんちゃくの中の神々が、ほんの僅かだけ身体を緩めた。

こよいは座席に腰を下ろし、巾着きんちゃくを膝の上に乗せた。  布越しに、神々の温もりを確かめる。  まだ縮こまっている。  けれど、脈は止まっていない。  座席の木は古く、表面が滑らかに磨り減っていた。何百人もの旅人の身体が磨いた木目が、薄い行灯あんどんの光の中でぼんやりと浮かんでいる。車内には他に乗客はいなかった。空の座席が整然と並び、窓から差し込むきりの白い光が、それぞれの影を床に落としている。

窓硝子まどがらすに額を寄せると、硝子ガラスの冷たさが肌に食い込んだ。  きりの奥に、町のともしびが最後に一つだけ瞬き、それきり消えた。

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