第497話 未帰還
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第497話 未帰還

第16章 余白の終点

列車(れっしゃ)が止まった。  汽笛(きてき)も鳴らず、蒸気も吐かず、ただ静かに止まった。

こよいは窓の外を見た。  霧(きり)がない。  旅を始めてから、霧列車(きりれっしゃ)の車窓から霧(きり)が消えたのは初めてだった。

代わりにあるのは、灰色の壁だった。  トンネルではない。壁そのものが空間を塞(ふさ)いでいる。上も左右も、どこまでも灰色が続き、奥行きだけがかろうじて残っている。

「行き止まりか」

あさひが窓に額(ひたい)を寄せた。

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を壁に向けた。光が灰色の表面に吸い込まれ、反射が返ってこない。

「行き止まりじゃない。通路だ。ただし、列車(れっしゃ)では通れない幅しかない」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を開いた。蒼光(そうこう)が頁(ページ)の上を走り、文字の残滓(ざんし)を拾う。

「ここが、未帰還(みきかん)の入口だ。目録(もくろく)に記述がある。『この地点を通過した者は、同じ経路での帰還を許されない』。観測者(かんそくしゃ)が設定した一方通行(いっぽうつうこう)の結界だ」

こよいの指先が冷えた。  巾着(きんちゃく)の中で、神々が微かに震えている。怯(おび)えではない。もっと深い場所で、神々は何かを感じ取っている。

「戻れなくなるの」

「戻れなくなる。だが、別の道で出られないとは書いていない。帰路が閉ざされるだけだ。出口がないとは限らない」

久遠(くおん)は目録(もくろく)の頁(ページ)を指で押さえたまま、こよいを見た。義眼(ぎがん)ではなく、裸眼(らがん)の右目で。

「ここまでの道を記録(きろく)してきた。記録(きろく)があれば、別の帰路を組み立てる材料になる」

あさひは立ち上がり、客室の扉を開けた。灰色の空気が流れ込む。  匂いがない。温度がない。皮膚に触れている実感だけがあり、それ以外の情報が一切ない。

「降りるぞ」

あさひは大剣の位置を確かめ、先にステップを降りた。靴底が灰色の地面に着く。音(おと)が遅れて返ってきた。足元は硬い。沈まない。

こよいが続いた。  降りた瞬間、背後で列車(れっしゃ)の扉が閉まった。振り返ると、車体がゆっくりと後退を始めている。

「列車(れっしゃ)が」

「戻っていくんだ。ここから先は列車(れっしゃ)の領域(りょういき)じゃない」

久遠(くおん)が最後に降り、三人は並んで列車(れっしゃ)を見送った。  黒い車体が灰色の通路の奥へ消えていく。車輪の音(おと)が小さくなり、やがて聞こえなくなった。

静寂(せいじゃく)が落ちた。  三人の呼吸(こきゅう)と、衣擦(こす)れの音(おと)だけが残っている。

こよいは振り返った。列車(れっしゃ)が去った方向には、灰色の壁が閉じていた。通路があった場所に、壁が生えている。  戻れない。  体で理解した。頭ではなく、足の裏が教えてくれた。さっきまで踏んでいた床板の温もりが、もう靴底のどこにも残っていない。

「始まったな」

あさひの声は低く、平たかった。恐怖を感じていないわけではない。恐怖を声に乗せる余裕がないだけだ。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を胸元に押し込み、両手を空けた。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を前方の通路に向ける。灰色の壁に挟まれた狭い道が、緩やかに下っている。幅は三人が横に並べる程度。天井は手を伸ばせば届く高さだった。

「通路の壁面に、文字が刻まれている」

こよいは壁に近づいた。灰色の表面に、ごく浅い溝(みぞ)がある。指先でなぞると、ひらがなの形をしていた。

「名前だ」

「名前の残痕(ざんこん)だ。ここを通過した名前が、壁に擦(す)れて残した跡だ。名前そのものはもう先へ行っている。跡だけが残った」

壁一面に、無数のひらがなが重なっていた。  古い文字の上に新しい文字が重なり、さらにその上に別の文字が刻まれている。読めるものもあるが、大半は重なりすぎて判別(はんべつ)できない。

こよいは写本(しゃほん)を開いた。  三十七の脈が応えている。壁の文字に反応するように、振動(しんどう)が強まった。  写本(しゃほん)の名前たちは、壁の残痕(ざんこん)を仲間だと認識している。

「この名前たち、ここを通った子たちの跡なんだ。同じ道を歩いた仲間がいる」

あさひは剣の柄(つか)に手を置いたまま、前方を見た。

「先に行った奴がいるなら、道はあるってことだ」

「ただし、戻ってきた痕跡(こんせき)はない」

久遠(くおん)が静かに言った。

三人の間に沈黙(ちんもく)が落ちた。  先に行った名前たちは、戻ってこなかった。戻れなかったのか、戻る必要がなかったのかは分からない。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に当てた。神々の振動(しんどう)は穏やかだった。  怯(おび)えていない。怯(おび)える段階は、もう過ぎている。

「行こう」

こよいが言った。  声は小さかったが、壁に反射して通路の奥まで届いた。

三人は下り坂の通路を歩き始めた。  壁の文字が足元の照明のように淡く光り、道を示している。先に通った名前たちが、灯(あか)りを残してくれたように見えた。

五十歩ほど進んだところで、通路が分岐した。  右と左。どちらも同じ幅、同じ傾斜で下っている。

久遠(くおん)が両方の壁を義眼(ぎがん)で探った。

「右の壁の方が、名前の残痕(ざんこん)が多い。多くの名前がこちらを通った」

「じゃあ右だ」

「待て。残痕(ざんこん)が多い方が安全とは限らない。多くが通った結果、その先で消えた可能性もある」

あさひが久遠(くおん)を見た。

「じゃあどうする」

「こよい」

久遠(くおん)がこよいを見た。

「写本(しゃほん)の名前に聞け。共鳴(きょうめい)が強い方を選ぶ」

こよいは写本(しゃほん)を分岐(ぶんき)の中央に掲げた。  右に傾けると、名前たちの振動(しんどう)は穏やかに鳴る。  左に傾けると、振動(しんどう)が鋭くなった。痛みに近い強さで、紙面が震える。

「左だ。名前たちが左に反応してる。強く」

「強い反応が良い反応かは断定できないが、名前が何かを感じ取っているのは確かだ」

あさひは迷わなかった。

「こよいの判断で行く。名前を頼りにここまで来たんだ。ここで変える理由がない」

三人は左の通路に入った。

壁の名前の残痕(ざんこん)は、右に比べて少ない。だが、一つひとつの文字が深く刻まれていた。浅く数が多いのではなく、深く少ない。この道を選んだ名前は少ないが、強い意志で通過したことが溝(みぞ)の深さから伝わる。

通路がさらに狭くなった。三人が一列でなければ通れない。  あさひが先頭。こよいが中央。久遠(くおん)が最後尾。

天井が下がり、頭を屈(かが)めて歩く。  空気が重くなった。呼吸(こきゅう)が浅くなる。

久遠(くおん)が後ろから声をかけた。

「壁の文字が新しくなっている。直近で通過した名前がいる。遠くない」

こよいは壁に手を触れた。  確かに、溝(みぞ)の縁(ふち)がまだ鋭い。古い文字のように角が丸まっていない。

前方から、かすかな風が吹いた。  匂いがない風。だが、空気の動きが皮膚に触れた。

通路の先に、光が見えた。

灰色ではない光。  白銀の、鋼(はがね)の光。

あさひが足を速めた。通路を抜けると、天井が一気に高くなる。

歯車だった。  壁一面を覆(おお)う白銀の歯車が、沈黙(ちんもく)したまま並んでいる。動いていない。だが、鋼(はがね)の表面には金色の蔓(つる)がかすかに絡み始めていた。

こよいは通路の出口で立ち止まり、一度だけ振り返った。  来た道は、もう見えなかった。灰色の壁が、通路を飲み込んでいる。

帰れない。  けれど、ここに来たことを後悔(こうかい)する暇(ひま)は、ない。

写本(しゃほん)の名前たちが一斉に脈打ち、歯車の部屋を照らすように、紙面から淡い光がこぼれた。

おたまは列車が戻る前に灰色の壁へ飛び移り、閉じる通路からこちら側へ着地した。壁の深い刻みを嗅いで左の分岐を選ぶ。小鈴の一音は帰路を保証しなかったが、四人全員が未帰還の内側へ入ったことを刻んだ。

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