第491話 祭壇の氷片
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第491話 祭壇の氷片

第16章 余白の終点

こよいは根の上に座った。

歩き疲れたのではない。座らなければ、この場所を正しく感じられないと思ったのだ。立ったままでは、足裏からしか振動(しんどう)が届かない。座れば、腰と太腿(ふともも)と掌(てのひら)の全部で、根の呼吸(こきゅう)を受け取れる。  根の表面はざらついていて、温かかった。乾いた木肌(きはだ)のようでいて、どこか生きた皮膚(ひふ)に似た弾力がある。こよいの体重を受け止めて、わずかに沈み、また押し返してくる。呼吸している、とこよいは思った。根そのものが、一つの大きな肺のように動いている。

巾着(きんちゃく)を膝(ひざ)の上に置いた。写本(しゃほん)を隣に広げた。

三十七の名前が紙の上に並んでいる。最も古い名前と、最も新しい名前。壊れかけていたものと、自分で歩いてきたもの。どれも今は同じ紙の上で、同じ速さで脈を打っている。

名前のない場所に座っているのに、名前たちは消えない。むしろ、ここに来てから脈が強くなった気さえする。名前のない土地が、名前を拒んでいるのではない。迎えているのだ。

こよいは掌(てのひら)を地面に当てた。体温と同じ温度。境界のない温度。触れているのに触れていない感覚。自分の手がどこで終わり、根がどこから始まるのか、分からなくなる。風もないのに、髪が微かに揺れた。地面から立ち上る空気が、こよいの頬(ほお)を撫(な)でて上へ抜けていく。

だが、さっきとは違うものが伝わってきた。

根の振動(しんどう)の奥に、もう一つの律動(りつどう)がある。根よりも深い場所で、根よりも遅いリズムで、何かが動いている。根を動かしている力そのものの脈。

「久遠(くおん)」

「聞こえてる」

久遠(くおん)も地面に膝(ひざ)をついていた。裸眼(らがん)の右目だけで地面を見つめている。義眼(ぎがん)はとうに消してあった。蒼光(そうこう)では捉えられないものがあると、久遠(くおん)は自分の肌で知ったのだ。

「根の下に、もう一層ある。根を育てている土壌(どじょう)のようなものだ。義眼(ぎがん)でも写本(しゃほん)でも観測(かんそく)できない。だが、確かにある」

あさひは立ったまま、周囲に目を配っていた。敵がいないと分かっていても、姿勢は崩さない。だが声は穏やかだった。

「こよい。泣いてるぞ」

こよいは頬(ほお)に手を当てた。濡(ぬ)れていた。いつから泣いていたのか分からない。悲しいのでも嬉しいのでもなかった。ただ、名前のない場所に名前を抱えて座っていることが、身体の奥にある何かを揺さぶっていた。

「泣いてるんじゃない。……滲(にじ)んでるだけ」

「同じだろ」

あさひは笑わなかった。ただ黙って、こよいの頭上に自分の影(かげ)を落とした。日差しはないのに、あさひの身体がつくる影(かげ)だけが地面にあった。名前のない場所でも、身体があれば影(かげ)はできる。

こよいは涙を拭(ぬぐ)わず、写本(しゃほん)を膝(ひざ)の上に載せ直した。涙が紙の上に一粒落ちた。墨(すみ)の文字が滲(にじ)むかと思ったが、名前は濡(ぬ)れた場所をそっと避(よ)けて光を保っていた。

「ここに来て、分かったことがある」

久遠(くおん)が顔を上げた。

「名前って、生まれるものだと思ってた。誰かが付けて、誰かが呼んで、それで初めて名前になるって。でもここは違う」

こよいは地面を撫(な)でた。指の下で、名前のない振動(しんどう)が脈打っている。

「名前になる前の何かが、ずっとここにいたんだ。名付けを待ってるんじゃない。名付けがなくても、最初からいた。名前は、後からこの子たちに着いたものだった」

久遠(くおん)は長く息を吐いた。その息が白くならないことに、こよいは気づいた。名前のない場所には、温度がない。寒くも暑くもない。ただ、在る。

「目録(もくろく)は名前を記録するものだ。記録されていないものは、目録(もくろく)には存在しない。だが、ここにいる。記録の外にも、世界はある」

「観測者(かんそくしゃ)も、設計者も、ここまでは管理できなかったってことだ」

あさひが言った。

「名前のないものは、消せない。漂白(ひょうはく)も凍結(とうけつ)も効かない。名前がないから」

こよいは巾着(きんちゃく)を持ち上げた。中の神々が穏やかに脈打っている。名前のない場所の振動(しんどう)と、名前を持つ神々の振動(しんどう)が、布を挟んで静かに重なっていた。

対立ではない。対話だった。こよいの膝(ひざ)を通して、二つの振動(しんどう)が緩やかに溶け合っている。

名前のある者と、名前のない場所が、こよいの膝(ひざ)の上で初めて向き合っている。長い時間をかけて離れてしまった二つが、旅の果てにようやく隣り合った。

こよいは立ち上がった。

「行こう。この先に、まだ何かある」

久遠(くおん)が頷(うなず)き、膝(ひざ)の土を払った。

あさひが先に歩き出す。布包みの剣が背で揺れ、刀身の鳴る音が布越しに地面へ吸い込まれた。振り返ったあさひの目が、一瞬だけこよいと久遠(くおん)の位置を確かめた。名前のない場所は、音さえも静かに飲み込んでいく。

三人は名前のない場所を横切った。足跡(あしあと)は残らなかった。踏みしめた地面はすぐに元の姿に戻り、三人が通ったことさえ記憶しない。根の振動(しんどう)だけが、三人の歩みを静かに見送っていた。

歩いた証(あかし)が地面に残らないぶん、こよいは一歩ごとの感触を覚えようとした。柔らかく沈む場所、乾いた木肌(きはだ)に似た場所、深い律動(りつどう)が強くなる場所。名を付けず、順番だけを胸に置く。振り返ればどれも同じ地面に見えたが、足裏には違いが残っている。それで十分だと、こよいは思った。

琥珀の光が消えた先に、低い祭壇(さいだん)があった。中央には名前のない氷片の原型が置かれ、干潟の灯籠で示された座標と完全に一致している。おたまが祭壇を一周すると、氷片は目録、写本、巾着の三つへ同じ空の拍を返した。

こよいは持ち去らず、氷片の空白へ三十七の脈を一度だけ通した。原型は名を奪う器ではなく、名を受け止めて元帳へ渡す入口だった。観測者はその入口を閉じ、空白を削除へ使っていたのだ。祭壇の下のもう一層とは、元帳へ続く根だった。こよいの通した三十七の脈が、閉ざされた入口を、もう一度、名前を受け止める側へと開いた。

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