第468話 波が戻す名
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第468話 波が戻す名

第15章 潮の外縁

波が戻っていた。

岬(みさき)から見下ろした海面(みなも)に、昨日までなかった波が立っている。小さな波。白い泡(あわ)を引く、穏やかな波。だが波の中に、光の粒が混じっていた。

金色の粒。

波が岸に打ち寄せるたびに、金色の粒が砂(すな)の上に残る。次の波が来ても、粒は流されない。砂(すな)に染み込むように留まり、微かに発光している。

こよいは岬(みさき)の岩場(いわば)を下りた。  砂浜(すなはま)に降り立つと、足元の砂(すな)が光っていた。

「名前だ」

久遠(くおん)が背後から言った。

こよいは膝(ひざ)をつき、砂(すな)の上の光の粒を見つめた。粒は文字の欠片(かけら)だった。ひらがなの一画。偏(へん)の半分。名前を構成する文字の、最小の破片(はへん)。

漂白(ひょうはく)で砕(くだ)かれた名前の欠片(かけら)が、海底に沈んでいた。それが今、逆流(ぎゃくりゅう)と根の力で海面(みなも)に押し上げられ、波に乗って岸に打ち上げられている。

「拾えるのか」

あさひが砂浜(すなはま)に降りてきた。

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)で砂(すな)の上の欠片(かけら)を読み取った。

「拾える。だが欠片(かけら)だ。一つの名前が何十もの破片(はへん)に砕(くだ)かれてる。組み合わせなければ元の名前にならない」

こよいは指先で砂(すな)の上の光の粒に触れた。  温かい。ほんの僅(わず)かだが、体温よりも温かい。名前の残った熱。

粒がこよいの指に吸い付いた。  指先に金色の染みが残り、微かに脈打った。

「集められる。ぼくの手に、くっつく」

こよいは両手を砂(すな)の上に広げた。  金色の欠片(かけら)が、磁石に引かれるように指先に集まってきた。巾着(きんちゃく)の中の名前たちが引力になっている。同じ名前の気配を持つ欠片(かけら)同士が、こよいの掌(てのひら)の上で寄り集まろうとする。

波が来た。

新しい欠片(かけら)が打ち上げられた。こよいは波が引く前に、砂の中から光る粒を拾い上げた。冷たい海水で指がかじかむ。だが手を止めなかった。

久遠(くおん)は砂浜(すなはま)の端に座り、目録(もくろく)と写本(しゃほん)を広げた。  こよいが拾った欠片(かけら)を義眼(ぎがん)で読み取り、どの名前の破片(はへん)かを分類(ぶんるい)していく。

「この偏(へん)は『みくに』の一部だ。こっちの画は『かさね』に合う。——逆流(ぎゃくりゅう)で戻った名前と一致する」

こよいの掌(てのひら)の上で、欠片(かけら)が組み合わさり始めた。  偏(へん)と旁(つくり)が近づき、離れ、また近づく。完全には繋(つな)がらない。接着(せっちゃく)する力が足りない。

「足りないな」

久遠(くおん)が呟(つぶや)いた。

「名前の核(かく)がない。文字の外殻(がいかく)は拾えても、名前の芯(しん)になる部分が欠けてる。芯(しん)は漂白(ひょうはく)で完全に消されたか、あるいはまだ海底にある」

こよいは波打ち際(ぎわ)に立った。  次の波を待つ。

波が来た。前の波より大きい。泡(あわ)の中の金色が濃い。

波が足首を包み、引いていった。  砂(すな)の上に、一際大きな光の粒が残った。他の欠片(かけら)より明るく、脈動(みゃくどう)が強い。

こよいは慎重に拾い上げた。

温かかった。掌(てのひら)の上で、欠片(かけら)の中で最も温かい。

「核(かく)だ」

久遠(くおん)が立ち上がった。

「名前の核(かく)。それが波で戻ってきた」

こよいは掌(てのひら)の上の芯(しん)を、他の欠片(かけら)の近くに寄せた。  欠片(かけら)が動いた。芯(しん)に引かれるように、砕(くだ)けた文字の破片(はへん)が集まり、組み合わさり始めた。

偏(へん)と旁(つくり)が繋(つな)がった。  一画目と二画目が重なった。

文字が生まれた。

ひらがな二文字。『みくに』の『み』。

まだ一文字だけ。名前の半分。だが確かに、漂白(ひょうはく)で消された名前が、波に乗って戻ってきた。

こよいの目から涙が落ちた。  涙が掌(てのひら)の文字に触れ、金色の光が一瞬強くなった。

「泣くなら拾いながら泣け」

あさひが背後で言った。声は荒いが、目線は海(うみ)を見ていた。次の波が来るのを見張っている。

こよいは涙を袖(そで)で拭(ぬぐ)い、波打ち際(ぎわ)に膝(ひざ)をついた。

次の波が来る。  その次も。

波のたびに、金色の欠片(かけら)が打ち上げられた。こよいは一つずつ拾い、掌(てのひら)の上に集めた。指先が海水と砂(すな)と光で金色に染まっていく。

久遠(くおん)は拾われた欠片(かけら)を記録(きろく)し続けた。分類(ぶんるい)し、照合(しょうごう)し、どの名前の破片(はへん)かを特定する。根気のいる作業だった。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が何度も瞬(またた)き、焦点を微調整していた。

日が傾いた。

砂浜(すなはま)に三つの文字が揃(そろ)っていた。  『み』と『ほ』と、もう一つ、まだ完成していない文字。三柱(みはしら)分の名前の欠片(かけら)が、こよいの掌(てのひら)を経由して写本(しゃほん)の上に並んでいる。

「全部は無理だ。今日のところは」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。

「だが波は明日も来る。逆流(ぎゃくりゅう)が続く限り、欠片(かけら)は打ち上げられ続ける」

こよいは砂浜(すなはま)に両手をついたまま、波打ち際(ぎわ)を見つめた。  引いていく波の中に、まだ金色が見える。海(うみ)の底にまだたくさんの欠片(かけら)がある。

あさひが手を差し伸べた。

「立て。指、冷えてるだろ」

こよいはあさひの手を取って立ち上がった。  指は冷たかったが、掌(てのひら)の中心だけが温かかった。名前の欠片(かけら)が残した温もり。

三人は砂浜(すなはま)を離れた。

背後で、波がまた岸に打ち寄せた。  金色の粒が砂(すな)の上にこぼれ、静かに光った。

消された名前たちが、少しずつ、この世界に帰ってこようとしていた。

おたまは次の波が届く位置を先に選び、濡れた砂の上で待った。小鈴が鳴る直前、海底の膜を根が押し破った低い震えが岬全体を通り抜ける。閉ざされていた音と波は、その裂け目から一緒に戻ったのだ。猫の前足へ運ばれた欠片を、こよいは新たな救出数に加えず、復元待ちの包みへ分けた。

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