第456話 呼ぶ海
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第456話 呼ぶ海

第15章 潮の外縁

海(うみ)が呼んでいた。

波の音(おと)に混じって、声が聞こえる。言葉ではない。言葉になる前の、もっと原始的な響き。名前を構成する音(おと)の粒が、波頭(なみがしら)に乗って岸に届いている。

こよいは岩場(いわば)に座り、膝(ひざ)の上に巾着(きんちゃく)を置いていた。

四柱(よんはしら)を救出してから三日が経つ。根脈(こんみゃく)の熱量が増し、漂白(ひょうはく)の勢いは明らかに弱まっている。けれど海(うみ)の声は、日を追うごとに強くなっていた。

「また聞こえる」

こよいは巾着(きんちゃく)に手を添えた。

神々が脈打つ。波の音(おと)と同じリズムで。

それが怖かった。

巾着(きんちゃく)の中の名前たちが、海(うみ)に引かれている。波が寄せるたびに神々の脈が強くなり、波が引くたびに弱くなる。潮(しお)の満ち引きに、名前の鼓動(こどう)が同期している。

「共鳴(きょうめい)している」

久遠(くおん)が岩場(いわば)の上で目録(もくろく)を広げていた。風で頁(ページ)が煽(あお)られるのを手で押さえながら、海面(みなも)を観察している。

「海底に、名前の堆積層(たいせきそう)がある。漂白(ひょうはく)で失われた名前の残骸(ざんがい)が、潮(しお)の外縁(がいえん)の海底に沈んでいる。数千年分の量だ。その残骸(ざんがい)が波に揺られて振動(しんどう)し、音(おと)を発している」

あさひは岩場(いわば)の端に立ち、海(うみ)を見下ろしていた。風が髪を乱す。

「死んだ名前の声ってことか」

「死んではいない。漂白(ひょうはく)されても、名前の構成要素は完全には消えない。文字としての形は失われるが、音(おと)としての振動(しんどう)は海水に溶けて残る。それが波とともに海面(みなも)に上がり、声になる」

こよいは波打ち際(ぎわ)まで降りた。

靴を脱ぎ、裸足(はだし)で水に入った。冷たい。けれど、足の裏に振動(しんどう)が伝わる。海底から、細かな震えが上がってくる。

巾着(きんちゃく)の神々が、激しく脈打った。

名前たちが応えている。海の底の仲間に。

「……聞こえるよ」

こよいは海(うみ)に向かって呟(つぶや)いた。

波が足首を洗った。その波の中に、かすかな温もりがあった。海水の温度ではない。名前の残響(ざんきょう)が持つ、微かな熱。

巾着(きんちゃく)の紐(ひも)が、風もないのに揺れた。

中の神々が、海(うみ)に向かって引かれている。こよいは反射的に巾着(きんちゃく)を握りしめた。

「出すな」

久遠(くおん)が鋭く言った。

「巾着(きんちゃく)の名前と海底の残骸(ざんがい)が直接触れると、共鳴(きょうめい)が暴走(ぼうそう)する。名前が巾着(きんちゃく)から出て、海(うみ)に溶ける危険がある」

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に押し当てた。

神々の脈動(みゃくどう)が、胸骨を通じて心臓に響く。海(うみ)の声と、巾着(きんちゃく)の鼓動(こどう)と、自分の心拍。三つの音(おと)が重なり、身体の内側で渦(うず)を巻いている。

「……出さないよ」

こよいは巾着(きんちゃく)に語りかけた。

「みんなの声が聞こえるのは分かる。でも、今出たら戻れない」

神々の脈が、少しだけ落ち着いた。

理解したのか、諦めたのか。こよいには区別がつかなかった。けれど、紐の揺れは止まった。

あさひが岩場(いわば)から降りてきた。

波打ち際(ぎわ)には来ない。水には入らない。けれど、海(うみ)を睨(にら)む目は真剣だった。

「海の底に何体いる」

「推定で数百。正確な数は分からない。漂白(ひょうはく)された名前は形を失っているから、個体として数えられない。音(おと)の密度(みつど)から推測するしかない」

久遠(くおん)が目録(もくろく)に書き込んでいる。海底の名前の分布(ぶんぷ)を、音(おと)の方角から推定して記録(きろく)している。

こよいは水から上がり、岩に腰を下ろした。

足が冷えている。けれど足の裏には、まだ振動(しんどう)の記憶(きおく)が残っていた。海底の名前たちが送ってきた、あの細かな震え。

波が寄せた。

今度は、波の音(おと)の中にはっきりと聞き取れるものがあった。

「た」

一音だけ。

波が引いて、消えた。

次の波で、また。

「す」

一音ずつ、波に乗って届く。名前の断片(だんぺん)が、海の呼吸(こきゅう)に合わせて浮き上がっている。

こよいは写本(しゃほん)を膝(ひざ)に広げた。

聞こえた音(おと)を、順番に書き留めていく。一波ごとに一音。名前になるかどうかは分からない。けれど、海(うみ)が送ってくる声を拾わないわけにはいかなかった。

巾着(きんちゃく)が温かくなっている。

神々が、こよいの行動に応えている。海(うみ)の声を聞き、書き留めるこよいの手を、内側から温めている。

あさひが空を見上げた。

雲が低い。潮(しお)の匂いが濃くなっている。

「天候が崩れる。引き上げるぞ」

こよいは最後にもう一度、海(うみ)を見た。

波の向こうに、何かが光った気がした。海底の名前たちが、一瞬だけ同時に瞬(またた)いたような。

見間違いかもしれない。

けれどこよいは、写本(しゃほん)の端にその光のことも書き加えた。

岩場(いわば)を登りながら、背中に波の音(おと)を聞いている。声はまだ続いていた。三人が離れても、海(うみ)は呼び続けている。

名前を失ったものたちが、それでも声を上げ続けている。

巾着(きんちゃく)の神々が、遠くなる波に合わせて、長く一度だけ震えた。

おたまは濡れた岩を嫌がるように一歩ずつ足を振っていたが、最後にだけ海へ振り返った。小鈴(こすず)は鳴らず、代わりに尾の先が波と同じ間隔で三度揺れた。こよいが抱き上げると、その腹にも海底から届く細かな振動が残っていた。声を聞いたのは、三人だけではなかった。  尾の先が、波と同じ律動で揺れていた。おたまは海を嫌いながら、海が呼ぶものを、確かに感じ取っている。こよいは、その猫の背中に、言葉にならない何かを読み取った。  海を嫌う猫が、それでも海へ振り返る。その仕草に、こよいは、まだ拾われぬ名前の気配を感じた。おたまが見るものを、こよいも見ようとした。

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