第443話 舟の影
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第443話 舟の影

第15章 潮の外縁

潮(しお)の外縁(がいえん)に出た瞬間、海面の色が変わった。  灰色でも青でもない。名前を失った水の色だった。

霧列車(きりれっしゃ)が座標(ざひょう)の書き換えを抜けてから、半日が経っている。列車(れっしゃ)を降りた三人の足元には、砂ではなく貝殻(かいがら)の粉が敷き詰められていた。踏むたびに、乾いた音(おと)がする。骨を踏んでいるようだった。

「……あれ、見えるか」

久遠(くおん)が水面(みなも)を指した。

海(うみ)の上に、舟(ふね)の影(かげ)がある。

舟(ふね)そのものではない。影(かげ)だけが、水面(みなも)に貼りついている。帆(ほ)も舳先(へさき)もなく、ただ黒い輪郭(りんかく)だけが潮(しお)に揺られていた。

「舟(ふね)はどこにあるんだろう」

こよいが訊いた。

「ない。舟(ふね)は漂白(ひょうはく)された。影(かげ)だけが残っている」

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)の焦点を絞り、目録(もくろく)の頁(ページ)をめくった。蒼光(そうこう)が頁(ページ)の上を走る。文字が反応し、微かに震えた。

「記録(きろく)がある。この舟(ふね)は、漂白(ひょうはく)が始まる前に名前を運んでいた。名前の輸送船だ。観測者(かんそくしゃ)が集めた名前を経蔵(きょうぞう)へ送るための舟(ふね)だった」

あさひが目を細め、水面(みなも)の影(かげ)を睨(にら)んだ。

「運んでたってことは、中に残ってるかもしれないな。名前の残りかすみたいなものが」

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に当てた。中の神々が微かに脈打っている。舟(ふね)の影(かげ)に反応しているのか、それとも水の下にある何かに反応しているのか、判別できない。

三人は岸辺を歩いた。

おたまは舟の影へ近づかず、貝殻の粉の上を平行に歩いた。小鈴が鳴るたび、水面の旧字体が一文字だけ濃くなる。救い上げられなくても、どの音へ反応したかを写本の染みの横へ記録できた。  貝殻(かいがら)の粉が足首まで積もっている場所がある。踏み込むと沈む。こよいは一歩ずつ確かめながら進んだ。

舟(ふね)の影(かげ)が近づく。  影(かげ)は動かないはずだった。けれど三人が歩くにつれて、影(かげ)の位置がわずかにずれている。こちらを避けるように。

「逃げてんのか、あれ」

あさひが剣の柄(つか)に手を添えた。

「逃げているのではない。漂白(ひょうはく)の残圧(ざんあつ)で揺れているだけだ。舟(ふね)が消えたときの力が、まだ水面(みなも)に残っている」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じ、水際まで歩いた。  靴の先が水に触れた瞬間、影(かげ)が震えた。

水面(みなも)に、文字が浮かんだ。

ひらがなではない。旧字体(きゅうじたい)の漢字が、影(かげ)の縁に沿うようにして一文字ずつ浮かび上がる。読めない速度で現れ、消えていく。

「……名前だ」

久遠(くおん)が膝をついた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が水面(みなも)を照らし、消えかけた文字を追う。

「舟(ふね)が沈む前に、積荷の名前が水に染み出した。漂白(ひょうはく)で舟(ふね)は消えたが、名前は水に溶けて残っている」

「救えるの」

こよいが巾着(きんちゃく)を握りしめた。

久遠(くおん)は首を振った。

「溶けた名前は再結晶しない。文字としての形を失っている。だが、記録(きろく)としての痕跡(こんせき)は残っている。目録(もくろく)に写せば、ここに何があったかだけは保存できる」

こよいは写本(しゃほん)を取り出した。  水面(みなも)に膝をつく。水は冷たい。骨まで冷える種類の冷たさだった。

写本(しゃほん)を水面(みなも)に近づけると、溶けた名前の粒子(りゅうし)が紙に向かって集まってきた。文字にはならない。けれど金色の染みが写本(しゃほん)の表面に広がっていく。  巾着(きんちゃく)の中の名前たちが、その染みに向かって脈動(みゃくどう)を送っている。  温もりを渡そうとしている。  仲間の残像(ざんぞう)に。

「……ごめんね」

こよいは水面に向かって呟(つぶや)いた。  名前を取り戻すことはできない。けれど、ここにいたことだけは、この紙が覚えている。

あさひが背後に立ち、周囲を見回していた。

「長居するな。潮(しお)が変わる」

海面(みなも)の色が、わずかに白みを帯び始めていた。漂白(ひょうはく)の残圧(ざんあつ)が、周期的に強まる時間帯がある。

こよいは写本(しゃほん)を閉じ、立ち上がった。膝(ひざ)が濡れている。冷たい水が布を通して肌に貼りついていた。

舟(ふね)の影(かげ)は、まだそこにあった。  三人が離れても、影(かげ)は水面(みなも)に残り続けている。運ぶものを失った舟(ふね)が、それでも浮かんでいるように。

久遠(くおん)が目録(もくろく)に一行だけ書き加えた。  舟(ふね)の分類番号。積載数。最後の航行日。  それだけの記録(きろく)が、消えた舟(ふね)のすべてだった。

貝殻(かいがら)の粉を踏みながら、三人は海岸線を離れた。風が止み、波の音(おと)だけが単調に繰り返されている。背後で、潮(しお)が舟(ふね)の影(かげ)を洗っている。洗うたびに影(かげ)が薄くなる。いつか消える。  こよいは一度だけ振り返り、舟(ふね)の影(かげ)を目に焼きつけた。

巾着(きんちゃく)の中で、神々が長く低い音(おと)を立てた。布越しに伝わる振動(しんどう)が、こよいの腰骨(こしぼね)に沁(し)みるように広がっていく。

弔(とむら)いの音(おと)だと、こよいは思った。  誰にも聞かれず消えていった名前たちへ、せめてこの音だけは届いてほしかった。こよいは目を閉じ、響きが消えるまで動かなかった。聞き届ける者がいることだけが、消えた名前への、ただ一つの手向(たむ)けだった。  搬送貨車は浜の線路で待っていた。潮が変わる前に三人とおたまは戻る。弔いだけで終わらせず、舟の分類番号が示す送り先——神雧中枢を次の行き先として選んだ。  金色の染みは、救えなかった名を原本(げんぽん)で探すための索引(さくいん)になった。拾えなかったからといって、諦めたわけではない。  次にひらくための、確かな消えない目印だった。

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