第436話 露岬の朝
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第436話 露岬の朝

第14章 風の残像

夕暮れに露岬(つゆみさき)の仮停車場で列車を降り、三人とおたまは岩陰に毛布を敷いて夜を越した。

夜明け前に目が覚めた。

こよいは毛布を肩に巻いたまま、露岬(つゆみさき)の岩場(いわば)に座っていた。東の空が薄く青み始めている。星がひとつ、ふたつと消え、代わりに海面が白く光り始めた。  空気が重い。水を含んだ空気が、肌に貼りつくように纏(まつ)わりついている。息を吸うと、喉(のど)の奥まで湿った冷たさが届いた。

露岬(つゆみさき)。  名前の通り、岬(みさき)全体が露(つゆ)に覆(おお)われている。

岩の表面に、水滴(すいてき)が密集(みっしゅう)していた。触れると指先が濡れる。だが、普通の露(つゆ)ではなかった。日が昇り始めても、水滴(すいてき)は蒸発(じょうはつ)しない。岩肌(いわはだ)に張りつき、光を受けて虹色に揺れている。  久遠(くおん)が先に起きていた。目録(もくろく)を膝(ひざ)に置き、岩壁(がんぺき)に顔を近づけている。義眼(ぎがん)の蒼い光が、露(つゆ)の粒を一つずつ照らしていた。

「起きたか」

「……うん。久遠(くおん)、何を見てるの」

久遠(くおん)は岩壁(がんぺき)から顔を離さず、指先で露(つゆ)の粒を辿(たど)った。

「文字だ」

こよいは毛布を落とし、久遠(くおん)の隣に膝(ひざ)をついた。  岩壁(がんぺき)の露(つゆ)が、模様を描いている。水滴(すいてき)の大きさと間隔(かんかく)が不均一(ふきんいつ)で、密集(みっしゅう)した場所と疎(まばら)な場所がある。遠くから見れば単なる露(つゆ)の集まりだが、近づくと、その濃淡(のうたん)が文字の形をしていた。

「……名前だ」

「夜の間に現れる。岬(みさき)の露(つゆ)が、消えた名前の痕跡(こんせき)を写し取っている。だが、午後には消える。露(つゆ)が乾くのではなく、文字の形が崩れて、ただの水滴(すいてき)に戻る」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を開き、見える文字を書き写し始めた。筆を走らせる手が速い。朝の光が強くなるにつれ、露(つゆ)の文字は輪郭(りんかく)を失っていく。

「急がないと間に合わない」

こよいは別の岩壁(がんぺき)に移り、目を凝(こ)らした。  露(つゆ)の文字は至るところにあった。地面の石にも、枯れた木の幹にも、崖(がけ)の表面にも。露岬(つゆみさき)全体が、夜の間に文字で覆(おお)われ、昼には消えるという呼吸(こきゅう)を繰り返しているのだ。

あさひが岩陰(いわかげ)から現れた。大剣を背負い、水筒を手にしている。

「朝飯の前に動くのか」

「消える前に写さないと。この文字は昼には持たない」

あさひは水筒の蓋(ふた)を閉め、周囲に目を配りながら二人の傍(そば)に立った。

こよいは石壁(いしべき)の前にしゃがみ込んだ。  壁の一角に、他より鮮明な文字列があった。露(つゆ)の粒が大きく、間隔(かんかく)が整っている。まるで、誰かが意図して書いたかのように、一つの名前が浮かび上がっていた。

ひらがな三文字。

こよいは口の中で、その名を読んだ。声には出さない。だが、読んだ瞬間、巾着(きんちゃく)が反応した。  布の内側で、一つの名前が震えている。二十七の脈のうち、ひとつが、壁の露(つゆ)の名前に向かって引かれるように動いた。

「……知ってる」

こよいは巾着(きんちゃく)を壁に近づけた。

「この名前、巾着(きんちゃく)の中の名前が知ってる。呼んでる」

久遠(くおん)が筆を止め、振り向いた。

「呼んでいる?」

「引っ張られる感じがする。この壁の名前と、ぼくの中にいる名前が、お互いを覚えてる」

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)を細め、壁の露(つゆ)を見つめた。

「生前の繋がりだろう。神として在った頃に、隣り合っていた存在だ。地域の社(やしろ)で共に祀(まつ)られていたか、同じ山系の神々だったか」

壁の露(つゆ)が、少しだけ光った。  朝日が差し込んだせいかもしれない。だが、こよいには、名前が応えたように見えた。

「……採れるか」

あさひが壁を見た。

「分からない。露(つゆ)だから、触れたら崩れるかもしれない」

こよいは指先を壁に近づけた。  震える手で、露(つゆ)の文字に触れる。水滴(すいてき)が指先に移り、冷たさが走った。だが、文字は崩れなかった。指先から巾着(きんちゃく)へ、水の膜(まく)を通じて何かが流れ込む。

巾着(きんちゃく)が鳴った。  低く、長い音。歓迎(かんげい)でも警告でもない。再会の音だ。

こよいは指を壁から離した。露(つゆ)の文字は薄くなり、やがて水滴(すいてき)に戻った。名前は壁から消えたが、巾着(きんちゃく)の中で、二つの名前が寄り添うように震えていた。

「……入った?」

「入ったのとは違う。でも、繋(つな)がった。この名前は、まだ露岬(つゆみさき)のどこかにいる。壁に写っているだけで、本体は別の場所にある」

久遠(くおん)が目録(もくろく)に書き加えた。

「露(つゆ)は鏡だ。岬(みさき)全体が、消えた名前を夜ごとに映し出す鏡になっている。本体を見つけるには、もう少し奥へ行く必要がある」

朝日が岬(みさき)を照らし始めた。  岩壁(がんぺき)の露(つゆ)が輝き、一瞬だけ文字の群れが金色に浮かび上がった。数十、数百の名前が、岬(みさき)の至るところで最後の光を放ち、やがて溶けるように消えていく。

こよいは息を止めて見つめた。  消えていく名前の群れ。昼には痕跡(こんせき)すら残らない。だが、夜が来れば、露(つゆ)はまた文字を結ぶ。岬(みさき)は忘れない。水滴(すいてき)の形で、毎夜、名前を呼び戻している。

あさひが背を向け、歩き始めた。

「飯にしよう。腹が減っては名前も拾えない」

こよいは苦笑し、巾着(きんちゃく)を胸に抱いて立ち上がった。  露岬(つゆみさき)の朝が、ゆっくりと明けていく。石の表面から最後の一滴が光を失い、ただの水に戻った。

潮風が、三人の髪を揺らした。

おたまが露の名を追って岩壁の割れ目へ入り、小鈴を鳴らした。返事は岬の地下深くから届く。本体へ続く入口は見つかったが、潮が満ち始め、今日ここから降りることはできない。久遠(くおん)は入口の形、満潮時刻、再会の脈を目録へ残した。

探索を捨てるのではない。島影の道を確保してから、干潮に戻る。こよいは繋がった一脈へそう約束した。三人とおたまは仮停車場へ戻り、待っていた霧列車に再乗車した。

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