第403話 選択の裂け
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第403話 選択の裂け

第13章 南の方位

広場を見渡すと、石畳(いしだたみ)に亀裂(きれつ)が走っていた。

一本の線ではなかった。地面を左右に引き裂くように、裂(さ)け目が広がっている。井戸(いど)を中心にして、東と西で地面の色が違った。東は枯れた茶。西は灰に近い白。亀裂(きれつ)の幅は手のひら一枚分ほどで、底は暗い。覗(のぞ)き込んでも先が見えなかった。石畳(いしだたみ)の表面を走る線は、最初は真っ直ぐだったものが途中で蛇行(だこう)し、広場の端(はし)まで伸びている。

「……裂(さ)けてる」

こよいが呟(つぶや)いた。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を地面に向けた。蒼光(そうこう)が裂(さ)け目の底を照らす。光は亀裂(きれつ)の中に吸い込まれ、壁面に金色の蔓(つる)の断面が見えた。根が亀裂(きれつ)に沿って走っている。蔓(つる)の断面から微かな光が漏れているが、通常の脈動ではなかった。途切れがちな明滅。息を止めて耐えている者の、浅い呼吸に似ていた。

「選択の痕(あと)だ」

久遠(くおん)が膝をついた。亀裂(きれつ)の縁(ふち)に手を置き、指先で壁面の蔓(つる)の断面に触れている。指が金色に染まり、すぐに色が引いた。

「この土地は、一度分岐した。どちらかを選ぶべき場所で、どちらも選ばなかった。だから地面ごと割れている」

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)を東側に向け、次に西側に向けた。蒼光(そうこう)の色が微かに変わる。東を照らしたときは通常の青白さだったが、西を照らしたとき、光がくすんだ。情報の密度が違うのだ。

亀裂(きれつ)の東側から、乾いた風が吹く。風には土と草の匂いが混じっていた。根が張った土地の匂い。西側からは、何も来ない。風もなければ音もなかった。空気が停滞(ていたい)している。西の石畳(いしだたみ)を踏んだとき、足の裏に伝わるはずの冷たさがなかった。温度そのものが抜け落ちていて、そこに何も存在しないかのような虚ろさだけが靴底(くつぞこ)に残った。

あさひが亀裂(きれつ)を跨(また)いで立ち、両方の地面を踏み比べた。左足を東に、右足を西に。剣の重さが右側にかかり、布包みの石突(いしづき)が西の地面に触れている。

「東は硬い。西は柔い。崩れかけてる」

あさひは右足を軽く踏み込んだ。西の石畳(いしだたみ)の角が小さく欠け、砂粒になって亀裂(きれつ)の中に落ちた。音はしなかった。砂粒が底に届く前に消えたのだと、こよいは思った。  東の石畳(いしだたみ)には罅(ひび)がある。古い傷跡のように走る細い線。だがその罅(ひび)の中に、金色の筋が通っていた。蔓(つる)が石の傷を縫うように走り、割れた石畳(いしだたみ)を繋(つな)ぎ止めている。壊れてはいるが、修復されつつある地面。  西の石畳(いしだたみ)には罅(ひび)がなかった。滑らかだった。けれどその滑らかさは、健全さの証ではない。ひび割れる力すら失った石の、静かな諦めだった。

こよいは巾着(きんちゃく)を握った。神々が揺れる。二十七の脈が、東側に向かって波を送っていた。布越しに伝わる波動が右手に偏(かたよ)り、東を指している。西には届いていない。名前たちは西を見ていなかった。見ようとしていないのか、見えないのか。

東は名前が生き残れる道。西は名前が薄れていく道。  二十七の脈動(みゃくどう)は同じ方向を指していた。一つの例外もなく、東。こよいが星野(ほしの)で最初に呼び戻した名前も、宵波浜(よいなみはま)で掬(すく)い上げた名前も、露野(つゆの)の井戸(いど)から浮かんできた名前も、等しく東へ向かっている。名前たちは知っているのだ。自分たちが生き延びられる方角を。

こよいは亀裂(きれつ)の縁(ふち)に立った。おたまは東西の境に座り、西へ一度だけ顔を向けた。名のない猫には、名前たちが選ばない道も見えている。それでも次の一歩は東へ置いた。小さな足跡が、こよいより先に選択の線を越えた。

下を覗(のぞ)くと、金色の蔓(つる)が一本だけ、亀裂(きれつ)の底で細く光っている。蔓(つる)は東に向かって伸びていた。西には一本も走っていない。根脈(こんみゃく)が、東だけを選んでいた。

こよいは東側に足を置いた。

「こっちだ」

迷いのない声だった。巾着(きんちゃく)の脈動(みゃくどう)に導かれたが、最後に足を踏み出したのは自分の意志だった。名前がより多く残る方を、こよいは選んだ。石畳(いしだたみ)を踏んだ瞬間、足の裏に温もりが返ってきた。東の地面は生きている。地下の蔓(つる)の体温が、石を通して足裏まで昇ってきていた。

亀裂(きれつ)の底で、金色の蔓(つる)が一本、東側に向かって伸びていく。こよいの選択に応えるように。蔓(つる)の先端が石の隙間(すきま)に差し込まれ、新しい根を下ろした。選ばれた道に、根が定着する。

あさひが黙って前に出た。東の道を先に歩く。布包みの大剣が背で揺れ、石突(いしづき)が石畳(いしだたみ)を掠める音だけが、乾いた風の中に落ちた。あさひの足音は重い。一歩ごとに東の地面が応え、蔓(つる)の脈動がわずかに強まる。歩く者がいるということが、道を道として保つ力になっているのかもしれなかった。

久遠(くおん)が亀裂(きれつ)を一度だけ振り返った。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が西側を照らす。光はやはりくすんで返ってきた。蒼光(そうこう)が映し出せるものが、西にはもう少ない。

「西側はこのまま崩れるだろう。選ばれなかった道は、やがて道でなくなる」

「……かわいそう」

こよいは振り返らずに言った。巾着(きんちゃく)を胸の前で抱えている。西を選ばなかったことは正しい。名前たちのために正しい。けれど正しさの中に、置いてきたものの重さがある。

「かわいそうかどうかは、選んだ後に考えることだ。今は前を見ろ」

久遠(くおん)の声は硬かったが、歩調(ほちょう)はこよいに合わせて緩めていた。

こよいは前を向いた。

東の道は、広場を出ると緩い坂になっていた。坂の両側に枯れた草が生えている。草の根元に金色の蔓(つる)が走り、枯れた茎(くき)を支えるように巻きついていた。枯れてもなお立っている草。蔓(つる)が倒れることを許さない。  背後で、かすかに石が崩れる音がした。振り返りたかったが、振り返らなかった。西の地面が、少しずつ亀裂(きれつ)に呑(の)まれている。選ばれなかった道が閉じていく音だった。

選択の裂(さ)け目は閉じない。けれど、その上を三人の足跡が横切っていった。選ぶことが道を作る。選ばないことが道を消す。こよいは東へ歩きながら、西に残された沈黙(ちんもく)のことを、巾着(きんちゃく)の温もりで覚えておこうと思った。

坂の上から風が吹いた。乾いているが冷たくはない。蔓(つる)が張った土地の匂いがする。その風に押されるように、三人は東へ進んだ。

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