第401話 返す潮
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第401話 返す潮

第13章 南の方位

静かな川の終端で、根の道は再び地上へ口を開けた。同じ露野(つゆの)でも、先に露を集めた地表と同じ時刻ではない。座標の書き換えで切り離され、土地が失うはずだった年月だけを先に重ねた層だった。

露野(つゆの)は乾いていた。

かつて湿原(しつげん)が広がっていたはずの場所に、砂が敷き詰められている。蓮(はす)の花の破片(はへん)が地面に散らばり、拾い上げると指の間でさらと崩れて砂になった。もう花ではなかった。花だったという記録(きろく)だけが、かろうじて形を保っていた残骸(ざんがい)。花弁(はなびら)の曲線が砂の粒の並びに残っている。触れなければ花に見える。触れた瞬間、砂に還(かえ)る。

広い。空は白く霞(かす)み、太陽の位置すら分からない。光が均一に降り注ぎ、影(かげ)を作らない。見渡す限り、砂と枯れた蓮(はす)の残骸(ざんがい)が続いている。水の痕跡はどこにもなかった。池の跡も、水路の跡も、泥の跡もない。まるで最初からここに水など存在しなかったかのように、砂が一面を覆(おお)っていた。

「情報の砂漠(さばく)」

久遠(くおん)が呟(つぶや)いた。

目録(もくろく)の頁(ページ)を見つめる義眼(ぎがん)に焦燥(しょうそう)が滲(にじ)んでいる。記された座標(ざひょう)が一分ごとに輪郭(りんかく)を失っていく。文字の端(はし)が崩れ、線が途切れ、やがて紙の色に溶けて消える。

「理(ことわり)が経蔵(きょうぞう)の回転軸を制御できなくなって、整合性(せいごうせい)を維持する重力が届かなくなった。この層では、土地の記憶(きおく)だけが何百年分も先に蒸発(じょうはつ)してる」

こよいは指先がひび割れていくのを感じた。乾いた空気が、皮膚の表面から水分を奪っていく。唇が割れ、舌を這(は)わせても潤いは戻らない。喉(のど)の奥まで乾いている。呼吸をするたびに、乾いた砂の匂いが肺に入り込んだ。

巾着(きんちゃく)の中の名前たちが深く沈黙(ちんもく)していた。自身の奥へ身を潜めている。脈動は消えていないが、極めて細い。砂漠(さばく)の乾燥に晒(さら)されまいとして、名前たちが自分の体積を限界まで小さくしている。雨の神が名前たちを包み込むようにして守っているが、雨の神自身も乾きに耐えていた。

この土地は、水という概念(がいねん)そのものを理(ことわり)に奪われたのだ。

巾着(きんちゃく)の中で雨の神が微かに振動した。失われた水を悼(いた)むように、こよいの腰のあたりに冷たい波紋(はもん)を広げる。

中の雨の神だけが、まだ濡れている。まだ温かい。この小さな温もりだけが、失われた湿原(しつげん)の最後の証人なのかもしれなかった。こよいは巾着(きんちゃく)の布を指先で撫でた。湿り気がある。雨の神が布に沁(し)み出して、こよいの指先に水を分けてくれている。ひび割れた指先に、微かな潤いが戻った。

「……蒸発(じょうはつ)。だったら、あの子たちの心もこの乾いた風に消えていくの。この砂みたいに」

こよいが訊いた。声が掠(かす)れた。乾いた喉(のど)から出る声は薄く、砂に吸い込まれそうだった。

久遠(くおん)は答えなかった。義眼(ぎがん)の出力をさらに引き上げ、蒼光(そうこう)が砂漠(さばく)の空気を裂く。光の軌跡(きせき)が一瞬だけ空中に残り、すぐに乾いた空気に吸い取られて消えた。その反動で義眼(ぎがん)の周囲の皮膚が赤く腫れていく。久遠(くおん)は瞬きもせずに前方を見つめている。目録(もくろく)が読み取れなくなりつつある中で、義眼(ぎがん)だけが最後の情報源だった。

あさひが前を向いたまま言った。

「今じゃない」

短い言葉だった。だがその声には、砂漠(さばく)の乾きを跳ね返すだけの熱が籠(こ)もっている。まだ終わりではないという宣言だった。あさひの声だけが、この乾いた空間で水気を失わない。声に含まれる覚悟の熱が、乾燥を寄せ付けていなかった。

おたまを砂へ降ろすと、肉球の水分まで奪われ、猫はすぐに前脚を上げた。こよいは抱き上げ、雨の神が滲ませた湿りを指で肉球へ分ける。小鈴だけは乾いた音にならず、巾着の内側と同じ水気を含んで鳴った。

三人は砂漠(さばく)の中を歩き始めた。あさひが先頭に立ち、久遠(くおん)が後方を確認しながら歩く。いつもの隊列だが、今日は三人の間隔が普段より狭い。足元で砕ける蓮(はす)の破片(はへん)が、かすかな音を立てて風に攫(さら)われていく。一歩ごとに砂が靴の中に入り込み、足指の間に溜まった。砂の粒は細かく、不思議と角がない。土地だけが先に経験した長い時間に削(けず)られた砂だった。こよいたちが露を集めてからの日数と、この層の乾燥年月は同じ時計では測れない。

風向きが変わった。

前方から吹いてくる。乾いた砂ではない。湿り気を帯びた風だった。あさひが足を止め、鼻をひくつかせた。久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が、風の来る方角に向かって蒼光(そうこう)を細く絞った。こよいの唇の割れ目に、微かな水気が触れる。舌先に、湿原(しつげん)の記憶が蘇(よみがえ)った。蓮(はす)の葉に溜まった朝露(あさつゆ)のような、淡く甘い水の匂い。

巾着(きんちゃく)が跳ねた。神々が内側から布を押し上げる。名前たちの脈動が一斉に強まった。沈黙を解(と)いて、前方から来る気配に応えている。

「……呼んでる。あの中から」

こよいが足を止めた。

砂漠(さばく)の向こう、蜃気楼(しんきろう)の揺(ゆ)らぎの奥に、建物の輪郭(りんかく)が見えた。経蔵(きょうぞう)だった。名前たちの潮(しお)が、その中から押し寄せてくる。目に見えない波が、三人の足元まで届いている。

こよいは巾着(きんちゃく)の紐(ひも)を握った。中の神々が答えるように熱を持つ。足元の砂が、前方に向かって微(かす)かに傾斜している。流れ込むように。あるいは、呼び寄せられるように。潮(しお)の呼ぶ方へ、一歩を踏み出した。  潮(しお)が低きへ返るように、この砂もまた、いちばん低いところへ名前を集めているのだった。  名前は、低いところへ集まる。忘れられ、こぼれ落ちたものほど、深いところで待っている。こよいは傾斜の先を見た。その底に、次に掘るべき場所があった。

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