静かな川の終端で、根の道は再び地上へ口を開けた。同じ露野でも、先に露を集めた地表と同じ時刻ではない。座標の書き換えで切り離され、土地が失うはずだった年月だけを先に重ねた層だった。
露野は乾いていた。
かつて湿原が広がっていたはずの場所に、砂が敷き詰められている。蓮の花の破片が地面に散らばり、拾い上げると指の間でさらと崩れて砂になった。もう花ではなかった。花だったという記録だけが、かろうじて形を保っていた残骸。花弁の曲線が砂の粒の並びに残っている。触れなければ花に見える。触れた瞬間、砂に還る。
広い。空は白く霞み、太陽の位置すら分からない。光が均一に降り注ぎ、影を作らない。見渡す限り、砂と枯れた蓮の残骸が続いている。水の痕跡はどこにもなかった。池の跡も、水路の跡も、泥の跡もない。まるで最初からここに水など存在しなかったかのように、砂が一面を覆っていた。
「情報の砂漠」
久遠が呟いた。
目録の頁を見つめる義眼に焦燥が滲んでいる。記された座標が一分ごとに輪郭を失っていく。文字の端が崩れ、線が途切れ、やがて紙の色に溶けて消える。
「理が経蔵の回転軸を制御できなくなって、整合性を維持する重力が届かなくなった。この層では、土地の記憶だけが何百年分も先に蒸発してる」
こよいは指先がひび割れていくのを感じた。乾いた空気が、皮膚の表面から水分を奪っていく。唇が割れ、舌を這わせても潤いは戻らない。喉の奥まで乾いている。呼吸をするたびに、乾いた砂の匂いが肺に入り込んだ。
巾着の中の名前たちが深く沈黙していた。自身の奥へ身を潜めている。脈動は消えていないが、極めて細い。砂漠の乾燥に晒されまいとして、名前たちが自分の体積を限界まで小さくしている。雨の神が名前たちを包み込むようにして守っているが、雨の神自身も乾きに耐えていた。
この土地は、水という概念そのものを理に奪われたのだ。
巾着の中で雨の神が微かに振動した。失われた水を悼むように、こよいの腰のあたりに冷たい波紋を広げる。
中の雨の神だけが、まだ濡れている。まだ温かい。この小さな温もりだけが、失われた湿原の最後の証人なのかもしれなかった。こよいは巾着の布を指先で撫でた。湿り気がある。雨の神が布に沁み出して、こよいの指先に水を分けてくれている。ひび割れた指先に、微かな潤いが戻った。
「……蒸発。だったら、あの子たちの心もこの乾いた風に消えていくの。この砂みたいに」
こよいが訊いた。声が掠れた。乾いた喉から出る声は薄く、砂に吸い込まれそうだった。
久遠は答えなかった。義眼の出力をさらに引き上げ、蒼光が砂漠の空気を裂く。光の軌跡が一瞬だけ空中に残り、すぐに乾いた空気に吸い取られて消えた。その反動で義眼の周囲の皮膚が赤く腫れていく。久遠は瞬きもせずに前方を見つめている。目録が読み取れなくなりつつある中で、義眼だけが最後の情報源だった。
あさひが前を向いたまま言った。
「今じゃない」
短い言葉だった。だがその声には、砂漠の乾きを跳ね返すだけの熱が籠もっている。まだ終わりではないという宣言だった。あさひの声だけが、この乾いた空間で水気を失わない。声に含まれる覚悟の熱が、乾燥を寄せ付けていなかった。
おたまを砂へ降ろすと、肉球の水分まで奪われ、猫はすぐに前脚を上げた。こよいは抱き上げ、雨の神が滲ませた湿りを指で肉球へ分ける。小鈴だけは乾いた音にならず、巾着の内側と同じ水気を含んで鳴った。
三人は砂漠の中を歩き始めた。あさひが先頭に立ち、久遠が後方を確認しながら歩く。いつもの隊列だが、今日は三人の間隔が普段より狭い。足元で砕ける蓮の破片が、かすかな音を立てて風に攫われていく。一歩ごとに砂が靴の中に入り込み、足指の間に溜まった。砂の粒は細かく、不思議と角がない。土地だけが先に経験した長い時間に削られた砂だった。こよいたちが露を集めてからの日数と、この層の乾燥年月は同じ時計では測れない。
風向きが変わった。
前方から吹いてくる。乾いた砂ではない。湿り気を帯びた風だった。あさひが足を止め、鼻をひくつかせた。久遠の義眼が、風の来る方角に向かって蒼光を細く絞った。こよいの唇の割れ目に、微かな水気が触れる。舌先に、湿原の記憶が蘇った。蓮の葉に溜まった朝露のような、淡く甘い水の匂い。
巾着が跳ねた。神々が内側から布を押し上げる。名前たちの脈動が一斉に強まった。沈黙を解いて、前方から来る気配に応えている。
「……呼んでる。あの中から」
こよいが足を止めた。
砂漠の向こう、蜃気楼の揺らぎの奥に、建物の輪郭が見えた。経蔵だった。名前たちの潮が、その中から押し寄せてくる。目に見えない波が、三人の足元まで届いている。
こよいは巾着の紐を握った。中の神々が答えるように熱を持つ。足元の砂が、前方に向かって微かに傾斜している。流れ込むように。あるいは、呼び寄せられるように。潮の呼ぶ方へ、一歩を踏み出した。 潮が低きへ返るように、この砂もまた、いちばん低いところへ名前を集めているのだった。 名前は、低いところへ集まる。忘れられ、こぼれ落ちたものほど、深いところで待っている。こよいは傾斜の先を見た。その底に、次に掘るべき場所があった。
