第375話 砂の気配
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第375話 砂の気配

第12章 記録の裂目

砂が動いた。

風もないのに。  浜辺(すなはま)の砂粒が、独りでに位置を変えている。最初は数粒だった。それが数十粒になり、やがて浜の一角が静かにうねり始めた。

こよいは足を止めた。

靴の先で、砂が左右に分かれている。踏んだのではない。砂の方がこよいの足を避けたのだ。

「生きてるみたいだ」

「生きてはいない」

久遠(くおん)が砂を掬(すく)い上げた。  手のひらに載せると、砂粒が指の間を這(は)い回る。義眼(ぎがん)を近づけて観察した。

「石だ。いや、石だったものだ」

蒼光(そうこう)の下で、砂粒の表面に微かな線が見えた。彫刻の痕跡(こんせき)。あまりに小さく砕かれて肉眼では分からないが、義眼(ぎがん)の倍率を上げると、一粒一粒に文字の断片(だんぺん)が刻まれていた。

「石碑(せきひ)の残骸(ざんがい)だ。名前を刻んだ石が砕かれて、砂になった」

「返らぬ潮(しお)の時に見た石壁(いしべき)と同じ?」

「同じものだ」

久遠(くおん)が頷いた。

「あの石壁(いしべき)が壊され、削られ、海に浚(さら)われ、波に磨かれて砂になった。数千年かけて。だが文字の溝(みぞ)だけは消えなかった。石が粉になっても、溝(みぞ)の記憶が残っている」

砂の動きが広がっていた。  浜辺(すなはま)の一面が、緩やかに蠢(うごめ)いている。砂粒が集まり、散り、また集まる。波打ち際から五歩ほど離れた場所で、砂が浅い溝(みぞ)を形成し始めた。

こよいはしゃがんだ。

溝(みぞ)は文字だった。  砂粒が自ら窪(くぼ)みを作り、線を描いている。一画ずつ、ゆっくりと。横画の砂が左から右へ移動し、縦画の砂が上から下へ落ちる。

「名前を書いてる」

こよいの声が掠(かす)れた。

砂が、砂自身の身体で名前を綴(つづ)っている。かつて石に刻まれた文字を、粉々になった石が再び形にしようとしていた。

あさひが浜辺(すなはま)を見回した。  砂の文字は一つだけではなかった。浜の至る所で、砂が窪(くぼ)みを作っている。大小さまざまな文字が、波打ち際に沿って並んでいた。

「何十もある」

「何百だ」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)で浜辺(すなはま)全体を走査(そうさ)した。

「この浜辺(すなはま)に含まれる砂粒の数だけ、名前の断片(だんぺん)がある。砂が十分に集まれば、一つの名前を再現できる。今、それが起きている」

波が来た。  小さな波が砂の文字を洗い、形を崩す。だが波が引くと、砂は再び同じ位置に戻った。文字を作り直している。

何度崩されても、同じ名前を書く砂。

こよいは巾着(きんちゃく)を握った。  神々の温もりが、砂の文字に向かって放射されている。巾着を近づけると、砂の動きが速くなった。文字の輪郭(りんかく)が鮮明になる。

「神々が手伝ってる」

「名前が名前を呼んでいるんだ」

久遠(くおん)が言った。

「巾着(きんちゃく)の中の神々は、名前の集合体だ。その温もりが砂の記憶を刺激する。砂に残った溝(みぞ)の記憶が、神々の中の名前に反応して、元の形を取り戻そうとしている」

こよいは写本(しゃほん)を取り出した。  砂が描いた名前を、一つずつ紙に写していく。だがインク《いんく》を使う必要はなかった。写本(しゃほん)を砂の文字の上に置くと、砂粒が自ら紙に張りつき、文字の形を転写(てんしゃ)した。

砂の名前が、紙の名前になる。

「三十七柱(さんじゅうななはしら)目だ」

久遠(くおん)が数えた。砂が綴(つづ)っていたのも、五十一柱のうちの一つだった。着地と回収、合わせて三十七。喪ったのが一。残るは十三——水脈を渡る七つ、封じられた井戸の戸口の一つ、砂の灯の紙の一つ。そして、観測者の本拠へ運ばれた四つ。……いや、あの四つは「残り」とは呼ばない。取り返しに行く枠だ。

遠くで汽笛(きてき)が鳴った。  低い音が浜辺(すなはま)に反響(はんきょう)し、砂の文字が一斉に震えた。

列車(れっしゃ)が来る。南へ向かう列車(れっしゃ)だった。

あさひが立ち上がった。

「時間だ」

「まだ名前が」

「次の場所にもある」

あさひがこよいの肩を叩いた。

「ここだけじゃない。砂がある場所には、全部残ってる」

こよいは砂の文字を見下ろした。  写し取れなかった名前が、まだ浜辺(すなはま)に並んでいる。波が来て、崩して、また砂が書き直す。何度でも。

列車の汽笛(きてき)が再び鳴った。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じ、立ち上がった。

「海岸地域の記録(きろく)はここまでだ。残りの名前は南にある」

三人は浜辺(すなはま)を離れ、線路沿いの道を歩いた。駅舎は小さかった。木造の屋根が潮風で白く色褪(あ)せている。改札(かいさつ)もない。ホームに直接立ち、列車(れっしゃ)を待った。

線路が鳴り始めた。  振動が足裏に伝わり、やがて音が追いつく。黒い機関車(きかんしゃ)が、白い蒸気(じょうき)を引きずりながら近づいてきた。

列車(れっしゃ)が停まった。  扉が開く。車内は空だった。

こよいは最後に一度だけ振り返った。

浜辺(すなはま)では、まだ砂が動いていた。名前を書き続けている。こよいたちが去った後も、波に崩されても、砂は自分の身体で名前を綴(つづ)り続けるだろう。

石が砕かれて砂になっても。  砂が波に洗われても。  名前を刻んだ溝(みぞ)の記憶だけは、消えなかった。

こよいは車内に入った。  あさひが続き、久遠(くおん)が最後に乗り込む。扉が閉まった。

列車(れっしゃ)が動き出した。  窓の外を、白い浜辺(すなはま)が後ろへ流れていく。やがて浜が松林に変わり、松林が丘陵(きゅうりょう)に変わった。海の匂いが薄れ、土と草の匂いに入れ替わる。

こよいは写本(しゃほん)を膝(ひざ)の上に広げた。  砂が転写(てんしゃ)した名前が、紙の上で乾いている。触れると、砂粒の感触(かんしょく)がまだ残っていた。

巾着(きんちゃく)が緩やかに脈打つ。  神々の温もりが、新しい名前たちを迎え入れている。

おたまは、進行方向に顔を向けた席で、丸くならずに座っていた。南に、何かがいる。猫の耳が、まだ聞こえない音を先に聴いている——そんな座り方だった。

車窓の外で、夕陽(ゆうひ)が沈んでいった。  南へ向かう列車(れっしゃ)の影(かげ)が、線路の上に長く伸びている。

海岸は遠くなった。  だが砂の記憶は、写本(しゃほん)の中に在る。

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