砂が動いた。
風もないのに。 浜辺の砂粒が、独りでに位置を変えている。最初は数粒だった。それが数十粒になり、やがて浜の一角が静かにうねり始めた。
こよいは足を止めた。
靴の先で、砂が左右に分かれている。踏んだのではない。砂の方がこよいの足を避けたのだ。
「生きてるみたいだ」
「生きてはいない」
久遠が砂を掬い上げた。 手のひらに載せると、砂粒が指の間を這い回る。義眼を近づけて観察した。
「石だ。いや、石だったものだ」
蒼光の下で、砂粒の表面に微かな線が見えた。彫刻の痕跡。あまりに小さく砕かれて肉眼では分からないが、義眼の倍率を上げると、一粒一粒に文字の断片が刻まれていた。
「石碑の残骸だ。名前を刻んだ石が砕かれて、砂になった」
「返らぬ潮の時に見た石壁と同じ?」
「同じものだ」
久遠が頷いた。
「あの石壁が壊され、削られ、海に浚われ、波に磨かれて砂になった。数千年かけて。だが文字の溝だけは消えなかった。石が粉になっても、溝の記憶が残っている」
砂の動きが広がっていた。 浜辺の一面が、緩やかに蠢いている。砂粒が集まり、散り、また集まる。波打ち際から五歩ほど離れた場所で、砂が浅い溝を形成し始めた。
こよいはしゃがんだ。
溝は文字だった。 砂粒が自ら窪みを作り、線を描いている。一画ずつ、ゆっくりと。横画の砂が左から右へ移動し、縦画の砂が上から下へ落ちる。
「名前を書いてる」
こよいの声が掠れた。
砂が、砂自身の身体で名前を綴っている。かつて石に刻まれた文字を、粉々になった石が再び形にしようとしていた。
あさひが浜辺を見回した。 砂の文字は一つだけではなかった。浜の至る所で、砂が窪みを作っている。大小さまざまな文字が、波打ち際に沿って並んでいた。
「何十もある」
「何百だ」
久遠が義眼で浜辺全体を走査した。
「この浜辺に含まれる砂粒の数だけ、名前の断片がある。砂が十分に集まれば、一つの名前を再現できる。今、それが起きている」
波が来た。 小さな波が砂の文字を洗い、形を崩す。だが波が引くと、砂は再び同じ位置に戻った。文字を作り直している。
何度崩されても、同じ名前を書く砂。
こよいは巾着を握った。 神々の温もりが、砂の文字に向かって放射されている。巾着を近づけると、砂の動きが速くなった。文字の輪郭が鮮明になる。
「神々が手伝ってる」
「名前が名前を呼んでいるんだ」
久遠が言った。
「巾着の中の神々は、名前の集合体だ。その温もりが砂の記憶を刺激する。砂に残った溝の記憶が、神々の中の名前に反応して、元の形を取り戻そうとしている」
こよいは写本を取り出した。 砂が描いた名前を、一つずつ紙に写していく。だがインク《いんく》を使う必要はなかった。写本を砂の文字の上に置くと、砂粒が自ら紙に張りつき、文字の形を転写した。
砂の名前が、紙の名前になる。
「三十七柱目だ」
久遠が数えた。砂が綴っていたのも、五十一柱のうちの一つだった。着地と回収、合わせて三十七。喪ったのが一。残るは十三——水脈を渡る七つ、封じられた井戸の戸口の一つ、砂の灯の紙の一つ。そして、観測者の本拠へ運ばれた四つ。……いや、あの四つは「残り」とは呼ばない。取り返しに行く枠だ。
遠くで汽笛が鳴った。 低い音が浜辺に反響し、砂の文字が一斉に震えた。
列車が来る。南へ向かう列車だった。
あさひが立ち上がった。
「時間だ」
「まだ名前が」
「次の場所にもある」
あさひがこよいの肩を叩いた。
「ここだけじゃない。砂がある場所には、全部残ってる」
こよいは砂の文字を見下ろした。 写し取れなかった名前が、まだ浜辺に並んでいる。波が来て、崩して、また砂が書き直す。何度でも。
列車の汽笛が再び鳴った。
久遠が目録を閉じ、立ち上がった。
「海岸地域の記録はここまでだ。残りの名前は南にある」
三人は浜辺を離れ、線路沿いの道を歩いた。駅舎は小さかった。木造の屋根が潮風で白く色褪せている。改札もない。ホームに直接立ち、列車を待った。
線路が鳴り始めた。 振動が足裏に伝わり、やがて音が追いつく。黒い機関車が、白い蒸気を引きずりながら近づいてきた。
列車が停まった。 扉が開く。車内は空だった。
こよいは最後に一度だけ振り返った。
浜辺では、まだ砂が動いていた。名前を書き続けている。こよいたちが去った後も、波に崩されても、砂は自分の身体で名前を綴り続けるだろう。
石が砕かれて砂になっても。 砂が波に洗われても。 名前を刻んだ溝の記憶だけは、消えなかった。
こよいは車内に入った。 あさひが続き、久遠が最後に乗り込む。扉が閉まった。
列車が動き出した。 窓の外を、白い浜辺が後ろへ流れていく。やがて浜が松林に変わり、松林が丘陵に変わった。海の匂いが薄れ、土と草の匂いに入れ替わる。
こよいは写本を膝の上に広げた。 砂が転写した名前が、紙の上で乾いている。触れると、砂粒の感触がまだ残っていた。
巾着が緩やかに脈打つ。 神々の温もりが、新しい名前たちを迎え入れている。
おたまは、進行方向に顔を向けた席で、丸くならずに座っていた。南に、何かがいる。猫の耳が、まだ聞こえない音を先に聴いている——そんな座り方だった。
車窓の外で、夕陽が沈んでいった。 南へ向かう列車の影が、線路の上に長く伸びている。
海岸は遠くなった。 だが砂の記憶は、写本の中に在る。
