第247話 最初の神
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第247話 最初の神

第8章 砂の境

経蔵(きょうぞう)の書見室での夜営を切り上げ、三人は裏門を出て霧列車(きりれっしゃ)に戻った。列車は五度目の影(かげ)の中心(ちゅうしん)を抜けた。

窓の外が色を取り戻していく。灰色が剥(は)がれ、下の色が露出する。だが車内は取り戻せていなかった。こよいの手は膝の上で握られたまま開かない。巾着(きんちゃく)の紐(ひも)が指に食い込んでいるのに、痛みが遠い。

目録(もくろく)の表紙が、ほとんど灰色に覆(おお)われていた。金色の筋だけが辛うじて残り、それ以外は色を失っている。経蔵(きょうぞう)で脈打っていたあの温もりが嘘のように、灰は冷たく乾いていた。

「もう読めないのか」

あさひが訊(き)いた。

久遠(くおん)は頁(ページ)をゆっくりめくった。指先が頁(ページ)の端に触れるたび、灰色の粒が微かに散る。こよいには、その粒が文字の残骸(ざんがい)に見えた。  灰色の頁(ページ)。灰色の頁(ページ)。灰色の頁(ページ)。  記述があったはずの場所に、文字の影すら残っていない。消されたのではなく、最初から何も書かれていなかったかのように、頁(ページ)は空白だった。あさひが腕を組み、視線を逸らした。見るに堪えないという仕草(しぐさ)ではない。見ても意味がないと判断した動きだった。

そして、鮮明な頁(ページ)。

久遠(くおん)の指が止まった。灰色の連なりの中に、突然、墨(すみ)の黒が現れた。文字が紙の繊維に深く喰い込み、影(かげ)の中心(ちゅうしん)を五度くぐってなお、一画も欠けていない。

「経蔵(きょうぞう)で原本から復元した記述だけが残っている」

声に感情がなかった。事実を述べているだけだった。

「影(かげ)の中心(ちゅうしん)は写しを消す。だが原本の権限で書き込まれたものは消せない。写しと原本では、情報の階層が違う」

久遠(くおん)は残った頁(ページ)をめくり直した。  経蔵(きょうぞう)で復元された記述。三枚だけ。灰色の海に浮かぶ三枚の島のように、それらは孤立して存在していた。

最後の一枚を開いたとき、久遠(くおん)は頁(ページ)を閉じなかった。

最後の一行に、指を置いたまま止まっている。  蒼光(そうこう)がその指先だけを照らし、他の文字を闇に沈めた。久遠(くおん)の唇が微かに動いたが、声にならなかった。義眼(ぎがん)の光が一瞬収縮し、瞳孔(どうこう)のように細くなってから、ゆっくりと元に戻った。

「……いた」

小さな声だった。喉(のど)の奥から押し出されたような、かすれた音だった。

あさひが眉を寄せる。  こよいは息を止めた。胸の中で心臓が一拍分だけ止まり、次の拍動が肋骨(ろっこつ)にぶつかった。

久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が揺れた。揺れたのは痛みではなかった。信じられないものを見つけたときの、確認の揺れだった。指先が頁(ページ)の上で白くなるほど押しつけられている。

「最初の神だ。名前の凍結(とうけつ)を命じた神。そいつは凍っていない」

沈黙が落ちた。

あさひの組んだ腕が解け、両手が膝の上に落ちた。久遠(くおん)の義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が、車内の壁を青白く染めたまま揺れもしない。三人とも動けなかった。意味を理解するのに時間がかかったのではない。意味が大きすぎて、体が追いつかなかった。

列車の揺れだけが続く。  こよいは自分の手が震えていることに気づいた。巾着(きんちゃく)が一度、強く脈打つ。神々が熱を持ち、布越しに指を焼いた。何かが応えている。こよいの中の何かではなく、もっと遠い、もっと深い場所にあるものが。  こよいの背中を冷たいものが這(は)った。怒りではない。怖(おそ)れでもない。名を奪い、凍らせ、その張本人だけが無傷でいるという事実が、体温を奪っていく。

「どこにいるの」

こよいの声は小さかった。けれど、車内には他に音がなく、その一言だけが三人の間を満たした。

久遠(くおん)は北を見た。窓硝子(まどがらす)に映る自分の顔を通り越して、その先の暗がりを見ていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が硝子(ガラス)に反射し、夜の景色の上に蒼い点を一つだけ灯(とも)す。

「まだ名を持ったまま、この世界のどこかにいる」

こよいは唇を噛(か)んだ。名を持ったまま。その四文字が、凍った名前たちの上に影を落とす。奪った側だけが、奪われずにいる。

あさひが身を乗り出した。座席の背もたれが軋(きし)み、剣の鞘(さや)が木の肘掛けに当たって硬い音を立てた。

「凍結を命じた神が、自分は凍ってない。そういうことか」

「そういうことだ」

あさひの声が低くなった。怒気ではない。剣を抜く前の、呼吸を整える間(ま)だった。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じた。指が震えていた。発見の興奮ではなく、その先に何があるかを考え始めた震えだった。閉じた表紙の上で、金色の筋が一度だけ脈打ち、沈黙した。

「凍結を命じた理由を、本人に聞く。それが次だ」

窓の外に、見覚えのある灯(ひ)が見えた。蒼白い行灯(あんどん)の火が、霧(きり)の中に並んでいる。

中陵(ちゅうりょう)だった。何度目かの中陵(ちゅうりょう)だった。

行くたびに少しずつ違って見える。今の中陵(ちゅうりょう)は、以前より暗い。余白(よはく)の灯(ともしび)が減っている。名を失った町が、少しずつ痩(や)せていく。

列車が速度を落とした。

「降りるぞ」

あさひが立ち上がった。

停車場(ていしゃじょう)に降りると、潮の匂いが混じっていた。こよいの鼻の奥が冷えた。中陵(ちゅうりょう)は山の町のはずなのに、どこかから海の気配が届いている。風の向きが変わったのか、あるいは、この中陵(ちゅうりょう)の地形そのものが以前と違うのか。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細め、北の方角を見た。

「おたまの山が近い。この中陵(ちゅうりょう)は、おたまの山の麓(ふもと)だ」

「おたまの……山?」

こよいは足元の三毛を見た。おたまは、山の方角へ顔を向けたまま、動かなかった。丸い瞳が、霧(きり)の奥の稜線(りょうせん)を映している。

「古い地図にある名だ。由来は書かれていない」

久遠(くおん)は言った。けれどその名を聞いた瞬間、こよいの膝の裏を、説明のつかない懐かしさが走った。猫はまだ、山を見ている。

こよいは巾着(きんちゃく)を見下ろした。神々の脈動が、北を向くと少しだけ強くなる。磁石(じしゃく)のように、何かに引かれている。

「……呼んでるのかな。それとも、呼ばれてるのかな」

久遠(くおん)は答えず、目録(もくろく)の金色の筋を指で辿(たど)った。筋が微かに光り、山の方角を指している。

三人は停車場(ていしゃじょう)の端に立ち、北の方角を見た。霧(きり)の奥に、山の輪郭(りんかく)がうっすらと滲(にじ)んでいる。その向こうに、名を持ったまま在る者が息をしている。  今夜はまだ、動けない。神々は消耗し、目録(もくろく)は灰に沈みかけている。それでも三人の視線だけは、もう山を離れなかった。おたまの尾が、ゆっくりと二度、振れた。

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