第169話 しおりの新しい帳面
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第169話 しおりの新しい帳面

第6章 影の計量

守り人(もりびと)の小屋を出る直前、少女がこよいを呼び止めた。

「これ、あなたに預かってほしい」

差し出されたのは、薄茶の帳面だった。  表紙の角が丸く擦(こす)れ、紐綴(ひもと)じが丁寧に補修されている。紐は三色あった。最初の綴じ糸と、後から足された二本。色は白、赤、灰。持ち主が変わるたびに、紐が増えていったのだろう。表紙の革は陽に焼けて色むらがあり、長い旅をしてきた手触りだった。革の表面に細い傷が何本も走り、鞄(かばん)の中で他の荷物と擦れた痕跡(こんせき)だと分かる。

こよいが開くと、一頁目に小さな字。

『しおりの新しい帳面』

こよいの胸が詰まる。  字は見覚えがある。丸みのある、でも芯(しん)の強い字だ。しおりは字を書く時、筆を紙から離すのが遅い。だから字の終わりに小さな溜めがある。この字にも、その癖が残っていた。溜めの部分に墨が少し濃く溜まり、紙の繊維に深く沁(し)み込んでいる。

「これ、どこで……」

少女は答える。

「東側の余白(よはく)で拾いました。古い帳面の継ぎ足しみたいで、途中から筆跡(ひっせき)が変わってる」

久遠(くおん)が横から確認した。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を弱く灯し、紙の繊維と墨の乗りを読む。蒼光(そうこう)の光が頁(ページ)を舐(な)めるように移動し、文字の一つ一つを照らす。  前半はしおりの癖に近い。字の間隔が均一で、行の始まりが揃(そろ)っている。文字の大きさも一定で、一行に入る字数がほぼ同じだ。  後半は別人の手だが、同じ規則で記録されている。行間の取り方、日付の位置、余白(よはく)の使い方。書いた人は違っても、書き方の骨格が一致している。しおりが作った書式が、まるで型紙のように他の人の手に渡っていた。

「引き継がれた帳面だな。しおりの書式が他者へ渡ってる」

久遠(くおん)の声に、感心と痛みが混じっていた。しおりがいなくなった後も、しおりの方法だけが歩き続けている。それは救いでもあり、不在の証拠でもある。記録の方法が残るということは、記録者が消えたということだ。

あさひが腕を組む。

「中身は読めるのか」

こよいは数頁めくった。指先が紙を撫(な)でるたび、紙の繊維が微(かす)かに音を立てる。古い紙だ。湿気を吸って少し波打っている。頁(ページ)と頁(ページ)の間に砂粒が挟まっていた。この帳面が砂の道を通ってきた証拠だ。  地図、観測時刻、短い会話。  どれも実用的で、感傷が少ない。しおりの記録はいつもそうだった。感情を書かない。事実だけを残す。けれど事実の選び方に、書いた人の目が映っている。何を記録に値すると判断したか。その判断が、感情の代わりに残る。  地図には二色の線が引かれていた。黒線は確認済みの道、赤線は未確認だが通れる可能性のある道。赤線の脇に小さく「?」と書き添えてあるのが、しおりの慎重さだった。断定しない。可能性を残す。赤線は黒線より多かった。確認できた道より、まだ歩いていない道のほうが多い。それでも書いておく。次に歩く人のために。

ただ、余白(よはく)にだけ感情が残る。頁(ページ)の端、罫線(けいせん)の外に、小さな走り書き。

『ここで泣くと足を取られる』

『笑えるうちに笑っておく』

『しおりの規則、まだ使える』

最後の一行は後半の筆跡(ひっせき)で、しおり本人の手ではなかった。しおりの名前を、引き継いだ人が書いている。その一行だけ、字が少しだけ大きい。書いた人の感情が、字の大きさに出ていた。  その柔らかくて迷いのない字に、こよいは見覚えがある気がした。中陵(ちゅうりょう)の書庫で見つけた、あの一行——『拾う手が、まだ残っている』。同じ手かどうかは、分からない。分からないまま、胸の奥に留めた。

こよいは帳面を抱きしめた。革の表紙が胸に当たり、旅の温度が伝わってくる気がした。  しおり本人の手ではない頁(ページ)もある。  それでも、しおりの仕事が続いている証拠だった。記録の仕方が伝わり、帳面が人を渡り、規則が生き残っている。しおりは消えたのではない。方法として散らばった。消えた人の仕事が残るということ。それは、旅の中でこよいが何度も見てきた光景だった。

久遠(くおん)は帳面の綴じ糸を見て言う。蒼光(そうこう)が糸の繊維を照らし、織りの模様を浮かび上がらせた。

「この補修糸、北門の織りだ。次の目的地が絞れる」

糸の色と撚(よ)りに、土地ごとの癖がある。久遠(くおん)はそれを義眼(ぎがん)で読み分けた。白い糸の撚(よ)りが右回りで、繊維に砂地の植物が混じっている。北門の職人しか使わない撚(よ)り方だ。

あさひが地図を指す。

「それとこの印。列車の通常路線じゃない。余白(よはく)線だ」

帳面の地図に描かれた線は、正規のどの路線図とも一致しない。余白(よはく)を通る道だ。守り人(もりびと)たちが保った道が、ここに記録されている。正規路線が閉じた後も通れる道。消された道の代わりに残された道。

こよいは小屋の机で写しを取り、原本を閉じた。机の上に灯された蝋燭(ろうそく)の光で、一字ずつ丁寧に写す。蝋燭(ろうそく)の炎が揺れるたび、影が文字の上を走った。写し間違えないように、一行ずつ確認しながら書く。

「原本はぼくが持つ。写しは守り人(もりびと)さんに残す。片方が消えても、もう片方が残るように」

少女守り人(もりびと)が嬉しそうに頷(うなず)いた。目が細くなり、年相応の顔になる。

「それ、しおりさんも同じこと書いてました。『記録は必ず二重化(にじゅうか)』って」

夜が更ける。窓のない小屋の外で、虫の音が細く鳴っていた。崩落(ほうらく)の後に戻ってきた虫だ。生き物は道より先に帰ってくる。虫が鳴いているということは、この場所がまだ生きているということだ。  三人は小屋の火鉢(ひばち)を借り、短い作戦会議をした。炭の匂いと紙の匂いが混ざる小屋の中で、帳面を広げる。蝋燭(ろうそく)の灯りが頁(ページ)の文字を橙色(だいだいいろ)に染めた。

帳面の末尾には、次の目印がある。  『中陵(ちゅうりょう)への門、砂の道側。灯が三つ欠けた先』。

久遠(くおん)が確認する。

「門は一度閉じたと記録されてる。再起動(さいきどう)手順が必要だ」

あさひは剣の欠けた刃先を見て、ため息をついた。夕暮れの薄い光が、欠けた断面を鈍く照らしている。

「今度は壊さない手順で頼む」

こよいは帳面を巾着(きんちゃく)の横にしまい、答えた。帳面の革の感触が、巾着(きんちゃく)の布越しに神々の温度と混ざる。

「壊さないで進む。しおりの新しい帳面は、そのために回ってきたんだと思う」

出発前、こよいは最終頁(ページ)へ短く追記した。しおりの使っていた同じ書式で、日付と場所と、一言だけ。

『受領。続行』

帳面の旅は、持ち主を替えながら続いていく。  原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)に必要な第三の条件——還す者の手(て)への糸口も、こうして人から人へ渡る帳面の中に記されているのかもしれない。

おたまは小鈴を鳴らさず、三人の後をついてきた。

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