墓標の丘を越えた先の鈴森町で、祭りの準備が始まっていた。
旗が出て、長机が並び、筆を持った人々が列を作っている。町の広場は小さかったが、人の密度は高い。子どもが走り回り、老人が椅子を運び、壁に貼られた大きな紙に墨で文字が書かれていた。墨はまだ乾ききっておらず、光沢を帯びて黒く光っている。 今日の札には、こう書かれている。
『名前を付け直す日』
こよいは目を丸くした。
「どういうこと?」
町役の老人が説明してくれる。白髪を束ね、厚い眼鏡をかけた男だった。手元の帳面が使い込まれて角が丸い。帳面の背表紙は何度も糊で貼り直されており、四代前の町役から引き継いだものだと言う。
「漂白と改竄で、名簿の半分が壊れた。だから年に一度、本人の申告で名を補う日を作った」
名前を失った者が、自分で名前を書く。それを周囲が読み上げ、声で定着させる。制度とも儀式ともつかない催しだった。広場には紙と筆と墨壺が並べられ、横には読み手の席がある。名前を書いた後、三人の読み手が順番に声を出す。一人では心許ない。三人の声が揃えば、名前は空気の中に形を持つ。
あさひが眉を上げる。
「自己申告でいいのか」
老人は笑った。皺が深く、笑うと目が細い線になる。
「証明のない時代だからこそ、本人の声を起点にする。偽名も混じる。だが黙って消えるよりはいい」
久遠は頷き、目録へ記す。
「制度として合理的だ。名の完全性より、継続性を取ってる」
完璧な名前を求めれば、誰も書けない。不完全でも書くことで、存在の継続を選んでいる。観測者が名前を管理し、削除してきたやり方の、まるで反対だった。管理者は正確さを求め、正確でないものを消した。この町は不正確でも残すことを選んだ。
広場では子どもが札へ名前を書き、親が読み上げる。 読みが揺れると、周囲が候補を出し合う。「この字はこう読むんじゃないか」「いや、こっちのほうが呼びやすい」。議論は穏やかで、結論を急がない。声が重なり、笑い声が混じり、広場の空気が温まっていく。
正解はひとつじゃない。 呼び続けられる形を選ぶ。それが、この町の答えだった。
こよいは列の横を歩きながら、札に書かれていく名前を見た。くっきりした字もあれば、震えた字もある。子どもの字は大きくて、画数が足りなかったりする。それでも誰も直さない。書いた人の手が作った字を、そのまま受け取る。こよいの手元で、巾着の神々がゆるやかに脈を打っていた。名前が書かれるたび、脈が一つ分だけ温かくなる。
こよいの前に、若い女性が立った。 手元の札は空白。指先が震えている。筆を持っているのに、下ろせない。墨が筆先で乾きかけていた。穂先に小さな墨の塊ができている。
「昔の名を思い出せないんです」
女性は唇を噛む。目の縁が赤かった。泣いたあとではなく、泣く手前の顔だ。唇の皮が乾いて、白く浮いている。
「でも、朝にパンを焼く仕事だけは覚えてる」
手に粉の跡が残っていた。爪の間にも白い粉が入り込んでいる。手の甲には小さな火傷の痕が点々とある。窯の縁に触れた跡だろう。名前は失っても、手は仕事を忘れていない。手が覚えている仕事の記憶は、名簿より確かだった。
こよいは少し考え、提案した。
「なら、その仕事に繋がる音から始めよう。名はあとで増やせる」
名前は完成品である必要がない。音が一つあれば、そこから育てられる。こよいはそれを、旅の中で知った。神々だって最初はただの一滴だった。渇きの神の井戸も、きっと最初の一滴から水が戻り始めるはずだ。
女性は頷き、ゆっくり書いた。筆が紙に触れる音が、広場の喧騒の中でやけにはっきり聞こえた。墨が紙に染み込む瞬間、繊維が墨を吸う微かな音がする。
『あさね』
周囲が読み上げる。 あさね。 あさね。
三度呼ぶと、女性の肩から力が抜けた。目尻から涙が一筋だけ落ちたが、拭わなかった。名前が戻ったのではない。名前が始まったのだ。 広場の空気が、一瞬だけ温かくなった気がした。巾着の中で神々が静かに脈打つ。名前が声で呼ばれるたびに、この町の何かが修復されていく。目に見える変化ではない。空気の質が変わるような、微かな変化だった。地面の色が、ほんの少しだけ濃くなった気がする。漂白が戻っているのかもしれない。
あさひが小声で言う。
「決めきらないまま進む。最近そればっかだな」
久遠が返す。
「決めきらない設計のほうが、生き残る場合がある」
目録を閉じながら、久遠は広場を見回した。書き手の列は途切れない。次々と人が来て、筆を取り、名前を書く。完璧でなくても書く。その行列自体が、この町の回復力だった。
こよいは巾着を握った。 神々の脈は穏やか。この町の空気に、神々も安心している。
夕方、町役が三人にも札を差し出した。
「旅人も、ここを通った証を残しなさい」
こよいは迷わず書く。 『こよい』。
あさひは少し間を置いて、『あさひ』。筆を持つ手が一瞬だけ固まった。剣を握る手と、筆を握る手は力の入れ方が違う。あさひは力を抜いてから、一気に書いた。 久遠は最後に、『久遠』と記した。義眼を閉じ、利き目だけで筆先を追っている。道具に頼らず、自分の目で書く。
当たり前の字なのに、手が少し震える。自分の名前を改めて書くという行為が、こんなに重いとは思わなかった。書くことで、自分がここにいると宣言している。誰かの番号ではなく、自分の名前で。 こよいは筆を置いた後、自分の札を見つめた。『こよい』の字が墨の光沢を帯びて乾いていく。旅の始まりでは、この名前に何の重さも感じなかった。今は、この三文字の中に拾ってきたものが全部入っている気がする。灯見町の雨も、月の峡の闇も、しおりの帳面も。
書き終えた三人の足元で、子どもの声が上がった。しゃがみ込んだ女の子が、おたまの首の藍色の布に縫い取られた名を読んだのだ。
「おたま!」
周りの子どもたちが真似て呼ぶ。おたま、おたま。猫は迷惑そうに尻尾を一度振り、それきり好きに撫でさせた。名前を付け直す日に、猫の名前も三度呼ばれた。呼ばれた名前は、生き直す。
老人は札を受け取り、祠の壁へ並べた。他の札と一緒に、日の当たる面へ貼る。
「名は固定じゃない。呼び直されるたび、生き直す」
夜、提灯の灯りが広場を照らす。橙の光が札の文字を浮かべ、壁一面が名前で埋まっていた。今日一日で書かれた名前の数だけ、この町は生き直した。 三人は短い休息を取り、次の路線へ向かう支度をした。
名前を付け直す日。 それは喪失の補修であり、同時に明日の準備だった。 名を呼び直すこの町の営みが、術式の第三の条件に近い何かを示している気がした。
