第167話 名前を付け直す日
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第167話 名前を付け直す日

第6章 影の計量

墓標ぼひょうの丘を越えた先の鈴森町すずもりちょうで、祭りの準備が始まっていた。

旗が出て、長机が並び、筆を持った人々が列を作っている。町の広場は小さかったが、人の密度は高い。子どもが走り回り、老人が椅子を運び、壁に貼られた大きな紙に墨で文字が書かれていた。墨はまだ乾ききっておらず、光沢こうたくを帯びて黒く光っている。  今日の札には、こう書かれている。

『名前を付け直す日』

こよいは目を丸くした。

「どういうこと?」

町役の老人が説明してくれる。白髪しらがを束ね、厚い眼鏡をかけた男だった。手元の帳面が使い込まれて角が丸い。帳面の背表紙は何度ものりで貼り直されており、四代前の町役から引き継いだものだと言う。

「漂白と改竄かいざんで、名簿めいぼの半分が壊れた。だから年に一度、本人の申告で名を補う日を作った」

名前を失った者が、自分で名前を書く。それを周囲が読み上げ、声で定着させる。制度とも儀式ともつかない催しだった。広場には紙と筆と墨壺すみつぼが並べられ、横には読み手の席がある。名前を書いた後、三人の読み手が順番に声を出す。一人では心許ない。三人の声が揃えば、名前は空気の中に形を持つ。

あさひが眉を上げる。

「自己申告でいいのか」

老人は笑った。しわが深く、笑うと目が細い線になる。

「証明のない時代だからこそ、本人の声を起点にする。偽名も混じる。だが黙って消えるよりはいい」

久遠くおんうなずき、目録もくろくへ記す。

「制度として合理的だ。名の完全性より、継続性けいぞくせいを取ってる」

完璧な名前を求めれば、誰も書けない。不完全でも書くことで、存在の継続を選んでいる。観測者かんそくしゃが名前を管理し、削除してきたやり方の、まるで反対だった。管理者は正確さを求め、正確でないものを消した。この町は不正確でも残すことを選んだ。

広場では子どもが札へ名前を書き、親が読み上げる。  読みが揺れると、周囲が候補を出し合う。「この字はこう読むんじゃないか」「いや、こっちのほうが呼びやすい」。議論は穏やかで、結論を急がない。声が重なり、笑い声が混じり、広場の空気が温まっていく。

正解はひとつじゃない。  呼び続けられる形を選ぶ。それが、この町の答えだった。

こよいは列の横を歩きながら、札に書かれていく名前を見た。くっきりした字もあれば、震えた字もある。子どもの字は大きくて、画数が足りなかったりする。それでも誰も直さない。書いた人の手が作った字を、そのまま受け取る。こよいの手元で、巾着きんちゃくの神々がゆるやかに脈を打っていた。名前が書かれるたび、脈が一つ分だけ温かくなる。

こよいの前に、若い女性が立った。  手元の札は空白。指先が震えている。筆を持っているのに、下ろせない。墨が筆先で乾きかけていた。穂先に小さな墨の塊ができている。

「昔の名を思い出せないんです」

女性は唇をむ。目のふちが赤かった。泣いたあとではなく、泣く手前の顔だ。唇の皮が乾いて、白く浮いている。

「でも、朝にパンを焼く仕事だけは覚えてる」

手に粉のあとが残っていた。爪の間にも白い粉が入り込んでいる。手の甲には小さな火傷やけどあとが点々とある。かまふちに触れたあとだろう。名前は失っても、手は仕事を忘れていない。手が覚えている仕事の記憶は、名簿めいぼより確かだった。

こよいは少し考え、提案した。

「なら、その仕事につながる音から始めよう。名はあとで増やせる」

名前は完成品である必要がない。音が一つあれば、そこから育てられる。こよいはそれを、旅の中で知った。神々だって最初はただの一滴だった。かわきの神の井戸いども、きっと最初の一滴から水が戻り始めるはずだ。

女性はうなずき、ゆっくり書いた。筆が紙に触れる音が、広場の喧騒けんそうの中でやけにはっきり聞こえた。墨が紙に染み込む瞬間、繊維が墨を吸うかすかな音がする。

『あさね』

周囲が読み上げる。  あさね。  あさね。

三度呼ぶと、女性の肩から力が抜けた。目尻めじりから涙が一筋だけ落ちたが、ぬぐわなかった。名前が戻ったのではない。名前が始まったのだ。  広場の空気が、一瞬だけ温かくなった気がした。巾着きんちゃくの中で神々が静かに脈打つ。名前が声で呼ばれるたびに、この町の何かが修復されていく。目に見える変化ではない。空気の質が変わるような、かすかな変化だった。地面の色が、ほんの少しだけ濃くなった気がする。漂白が戻っているのかもしれない。

あさひが小声で言う。

「決めきらないまま進む。最近そればっかだな」

久遠くおんが返す。

「決めきらない設計のほうが、生き残る場合がある」

目録もくろくを閉じながら、久遠くおんは広場を見回した。書き手の列は途切れない。次々と人が来て、筆を取り、名前を書く。完璧でなくても書く。その行列自体が、この町の回復力だった。

こよいは巾着きんちゃくを握った。  神々の脈は穏やか。この町の空気に、神々も安心している。

夕方、町役が三人にも札を差し出した。

「旅人も、ここを通った証を残しなさい」

こよいは迷わず書く。  『こよい』。

あさひは少し間を置いて、『あさひ』。筆を持つ手が一瞬だけ固まった。剣を握る手と、筆を握る手は力の入れ方が違う。あさひは力を抜いてから、一気に書いた。  久遠くおんは最後に、『久遠』と記した。義眼ぎがんを閉じ、利き目だけで筆先を追っている。道具に頼らず、自分の目で書く。

当たり前の字なのに、手が少し震える。自分の名前を改めて書くという行為が、こんなに重いとは思わなかった。書くことで、自分がここにいると宣言している。誰かの番号ではなく、自分の名前で。  こよいは筆を置いた後、自分の札を見つめた。『こよい』の字が墨の光沢こうたくを帯びて乾いていく。旅の始まりでは、この名前に何の重さも感じなかった。今は、この三文字の中に拾ってきたものが全部入っている気がする。灯見町とうみまちの雨も、つききょうの闇も、しおりの帳面も。

書き終えた三人の足元で、子どもの声が上がった。しゃがみ込んだ女の子が、おたまの首の藍色の布に縫い取られた名を読んだのだ。

「おたま!」

周りの子どもたちが真似て呼ぶ。おたま、おたま。猫は迷惑そうに尻尾を一度振り、それきり好きに撫でさせた。名前を付け直す日に、猫の名前も三度呼ばれた。呼ばれた名前は、生き直す。

老人は札を受け取り、ほこらの壁へ並べた。他の札と一緒に、日の当たる面へ貼る。

「名は固定こていじゃない。呼び直されるたび、生き直す」

夜、提灯ちょうちんの灯りが広場を照らす。だいだいの光が札の文字を浮かべ、壁一面が名前で埋まっていた。今日一日で書かれた名前の数だけ、この町は生き直した。  三人は短い休息を取り、次の路線へ向かう支度をした。

名前を付け直す日。  それは喪失の補修であり、同時に明日の準備だった。  名を呼び直すこの町の営みが、術式じゅつしきの第三の条件に近い何かを示している気がした。

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